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魚を生で食べる緊張感と喜び

伏木 亨

龍谷大学名誉教授、農学博士

魚を生で食べる緊張感と喜び

伏木 亨

龍谷大学名誉教授、農学博士

日本人は魚を大事に食べている

昨今、クロマグロをはじめマグロの資源保護に国際世論が沸騰している。
曰く、
「日本人が世界中のマグロを食い尽くしてしまうのではないか」
「規制しなければエビもマグロもクジラもみんな日本人が食べてしまう」
まるで、イナゴの大群のような扱いである。

日本人ほど魚を大事に食べている民族はない。どこかの国の料理のように、サーモンやカジキをかすかすに焼いてケチャップかけて食べるようなもったいないことはしない。それでは魚がかわいそうだ。クロマグロが日本人にとって重要なのは、刺身にして生で食べることと無関係ではない。焼いたり煮付けて食べる魚ならばそんなに大騒ぎはしない。生で食べる魚であることが重要なのだ。

魚が焼けるのを待てない日本人?

生で食べるというのは日本文化の誇りだ。先日見たアメリカ映画のセリフにこんなのがあった。セールスマンが商談に日系の会社に向かって急いでいる。日本人の魚の生食を皮肉っている。
「約束に遅れるぞ、急げ。日本人はせっかちだから。」
「そうなの?」
「なにしろ、魚が焼けるのも待てないぐらいだからな」

良くできているが失敬なジョークである。余計なお世話である。生の魚ほど旨いものはない。純朴な外国人のあいだでは、日本人は魚ならば何でも生で食べると思っているフシがある。
「生臭いでしょ?平気なの?」
冗談ではない。生食できる魚は鮮度が高い貴重品だ。ハエが飛び交ってアンモニア臭いシーフードコーナーで、だらけきった醜態をさらしているフィッシュなんかを食べているわけではない。うま味が最大になる微妙なタイミングで出される鯛やヒラメを食べてみなさい。こりこりの歯触りが命のカンパチなんかを一度食べてみなさい。

生の魚には緊張感がある

生の魚には独特の旨さがある。生で食べるという緊張感もある。火を通したものには失われている味である。わさびの刺激と醤油のうま味で覆っていても、魚の味は生きている。

魚の肌を感じる微かな生の匂い。組織が熱で変性していないみずみずしさもある。
「日本のサシミつてどの魚も同じに感じるけれど」
あるとき、私の家にステイしていたアメリカ人女性の偽らない感想である。醤油とわさびの味ばかりに感じるのだろう。生魚に興味を感じない人たちに食べられるよりも、われわれ日本人に食される方が魚も成仏するというものだ。

高度な衛生観念があったことが大きい

動物を生で食べることは非常に危険である。中毒したり、寄生虫などに感染するかもしれない。新鮮かどうかを見分ける目がなければならない。季節によっては安全ではないというような知識も必要だ。加熱する方が絶対に安全なのである。それでも生で食べたいという衝動を叶えるには、保存技術をはじめ衛生という観念が十分に発達した文化でなければならない。日本人の生食は勇気ではない。安全に関わる知識に裏付けられた高度な食文化である。

生の魚の緊張感って何だろう

イタリアのカルパッチョも生魚である。フランス料理にも生はある。刺身好きの私には好ましい前菜である。生が好きなのは日本人だけではない。海外で大流行のすしも、甘くて旨くて酢の利いたご飯のおいしさももちろんだが、生の魚を口にする緊張感が好まれている一因だと私は思っている。

欧米だって生肉を食べる。血の滴るレア・ステーキも生の動物を食べる緊張感だ。ヨーロッパのタルタル・ステーキもしかり。韓国のユッケも元をたどればタルタル・ステーキの親戚らしい。よく火の通ったものには無い緊張がある。野性の血が騒ぐのだろうか。

魚の刺身には、襟を正さずにはいられない格式がある。パジャマ姿で脛を掻きながら食するものではない。うまく表現しにくいが、どこか宗教的な感覚に通じるような神聖な気持ちになる。禁断の食と言えば大げさであるが、生命をいただいているという現実に直面する食材だからかもしれない。生の魚を食べる緊張感と喜びにはそんな微妙で複雑な感覚が底に流れる。

野暮な料理をしない究極の料理

日本の刺身は、煮たり焼いたりの調理をしていないから料理とは言えない。そう評する外国人もいるが大間違いだ。まず徹底して素材を吟味する。真剣に切り、美しく盛りつける。包丁の切れ味一つで刺身の味が変わるという。切り口の微細な違いをわれわれの舌が敏感に感じとるのだ。これほど奥の深い調理はない。煮たり焼いたりなどという野慕な技を使わない究極の料理である。無の美学とでも言うべきか。

出典「逓信協会雑誌」(平成19年4月号通巻1151号)