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立ち呑み屋店主 『食』を読む。 〜十五食目〜

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

立ち呑み屋店主 『食』を読む。 〜十五食目〜

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

十五食目

『牛を屠る』佐川光晴著(双葉文庫)

肉を食べるという行為は当たり前に我々の日常の中にあり、その文化を一切持たない国というのは存在しないのではないだろうか。
一方で食肉と差別の問題は世界中に見受けられるし、信仰によってある種の獣肉を食べる行為が禁忌とされている例も数多くある。
私はこれらのことは人間の肉食への渇望の裏返しではないかと考える。

江戸時代、我が国では獣肉を食べることが禁じられていたが、一方でその旨を通達する触れ書きが繰り返し出されたという記録も残っている。つまり、繰り返し通達せねばならぬほど獣肉を食べることが市井の人々に浸透していたということになる。

獣、特に大型の獣を解体し食べるという行為は魚や鳥のそれと比べ、より命や死を感じさせるだろうし、結果それに関わることが穢れとされ、差別を生む一因となっていったことは想像に難くない。
つまり我々は肉食を渇望する一方で、それに携わる人々を差別するという矛盾を孕んできたことになる。

このように食肉、特に屠殺と差別の問題はとかく併せて語られがちであるが、今回紹介する『牛を屠(ほふ)る』はあえて「差別」というフィルターを外し、フラットに屠殺や屠場の世界を描き出しているところに新鮮さがある。

著者である佐川光晴は大学卒業後に勤めていた出版社を退職し、職業安定所(現ハローワーク)の紹介で埼玉県大宮の屠場に10年半勤めた後、本書を上梓している。
出版社を退職後、工事現場などでの日雇い労働に従事していた著者は、屠場で働くことになった動機を「技術も経験も求められない下働きの日々のなかで、同じ肉体労働でもおいそれとは身につけられない仕事のなかで鍛えられたい」と思ったと振り返るが、その言葉の通り、本書で語られる屠場での日々はそこで働いた者にしか知り得ないものである。

私たちが日々の暮らしの中で食べている肉がどの様にして我々の食卓へ上るのかについて我々が無知であることは、既に幾度も指摘されているが、その自覚を持ってしても本書で語られる屠場の日々は驚きと興奮、そして知的好奇心を満たすに十分な内容であった。

著者の勤めた大宮の屠場では牛と豚の屠殺が行われているが、その過程はそれぞれで大きく異なる。まず牛や豚を絶命させ、それから皮を剥ぎ解体していくわけだが、それぞれの工程ごとに長年の経験に裏付けられた職人の技や知恵がある。

本書では著者が未経験の仕事に戸惑いながらも様々な先輩職員の叱咤激励を受け、それらの技術を習得していく様子が丁寧に書かれており、屠殺に関わる職人の技術が類稀なる職能であることを読む者に教えてくれる。
例えば、皮を剥ぐにしても熟練の職人は一度に素早く、より幅広く剥くことができ、肉にも皮にも傷が付かない。一方、未熟な者がやれば肉にも皮にも傷が付き、皮を買い取りにきた業者からクレームを受けることになるといった具合である。

著者はこの皮剥ぎの勘所を掴んだときのエピソードを詳細に振り返るが、経験のない私が読んでもピンとは来ない。しかしそれでもなるほどと思わせるだけの説得力があるのは、それが「おいそれとは身につけられない仕事」のせいであろう。

また高値で取引される和牛の解体は絶対に失敗できないとした上で、高価な和牛ほど容易に皮を剥ぐことが出来たと書いているが、私は和牛の皮を剥いだ経験はないものの、安価なニンニクより高価で大粒な物のほうが薄皮を剥きやすく、高価で大ぶりな蟹ほど労せず殻から身を取り出すことが出来ることは知っている。

これは何とも不思議なことである。高価である事がすなわち処理しやすい事に直結はしないものの、ここには何らかの因果関係があるのかも知れない。

本書のなかで最も深く印象に残ったのは、著者が「屠殺」という言葉についての自論を述べる箇所であった。
この本が差別とは異なる視点から屠殺や屠場について書かれたものであることは先述したが、それは差別の問題について全く触れないという意味ではない。屠殺や屠場について書くときそのことについて一切触れないとすれば、むしろそちらの方がフラットな視点だとは言えないだろう。

著者は「「死」には「冷たい」というイメージが付きまとう。しかし牛も豚もどこまでも熱い生き物である。ことに屠殺されてゆく牛と豚は、生きているときの温かさとは桁違いの「熱さ」を放出する」「喉を裂いたときに流れ出る血液は火傷するのではないかと思わせるほど熱い」と言い、その上で「屠」の一文字だけでは不十分で、差別意識を助長しかねないとしても「殺」の文字を重ねることが「自らが触れている「熱さ」に拮抗」するために必要であったと書いている。

これはその立場に立った者にしか判らない感覚であるが、それでも我々読者に命を食べることの意味を伝えるには十分過ぎる言葉ではないだろうか。

また前書きの補足において、「「屠殺」という言葉によってこそ、その行為と、その行為の背後にある、差別的な視点などではとうてい覆いきれない、広く大きなものが感じ取れるのだと、私は考えている」とも記している。
つまり屠殺や屠場には差別の問題を内包しつつも、もっと大きな書くべきもの、伝えるべきものがあったということになるし、事実、私も本書を読んだ感想はその通りであった。

最後に初版は2009年であり、現在の屠場の現実はここに書かれている内容からまた大きく変わっているであろうことを付け加えておく。
また著者も本書で触れているが、屠場と差別の問題については「ドキュメント 屠場」(鎌田彗著/岩波新書)の方で詳しく触れられているので、興味のある方は併せて一読されることをお勧めする。

写真/伊藤 信  企画・編集/吉田 志帆