新鮮なものはおいしい。鮮度が命、とテレビのCMが叫ぶ食品は少なくない。確かに新鮮な野菜はおいしい。甘味がある。新鮮な魚ももちろんおいしい。新鮮なビールは舞い上がるほどおいしい。栓を開けたばかりの清酒は爽やかだが、日がたつにつれてひねた風味が漂う。新鮮な味とはいったい何だろうか。
一般的に新鮮な風味を消すものは酸化であると言われている。酸化は酸素とくっつくことである。だから鮮度が重要な食材に対しては酸素は悪者である。人間は活きるために酸素が必要である。この酸素はいわば、炎の役目をしてエネルギーを生産してくれる。そのかわり、副作用としていろんな物を酸化してしまうのだ。とれたてのカニや海老も、少しおいておいただけで嫌な臭いに変わってしまう。活きているうちは新鮮さが保たれるが、死ぬととたんに組織の分解が始まり、酸素に触れた組織の劣化がおこる。行きている体には分解や酸化を防ぐ作用があることがよくわかる。呼吸で吸い込む酸素の副作用を消す機構である。
食品の酸化によってできたいろいろな種類の酸化物が好ましくない味わいを出す。日本酒のひね香もコクを増す作用を持つ反面、新鮮さを失わせる。ビールの保存中の酸化臭は主にアルデヒド類によるものであり、「紙臭」とも呼ばれる。たくさんの物質が関係するがトランス2ノネナールが有名である。ビールを数ヶ月室温に放置すると、徐々に増えてくる。ある程度の濃度を超えると好ましくない香りとして感じられる。人間でも最近は加齢臭などと過激な表現の臭いが注目されてきている。年を重ねた人間からはノネナールのような酸化臭が香ることも明らかにされている。新鮮さと酸化は深い関係にあることは間違いがない。
新鮮さを維持することは、人間も食品も同じく重要で、それには酸化を抑制する物質が多用されるのも同様である。酸化に対抗する能力の高いビタミンCやビタミンEは食品の酸化を抑える働きが強いので盛んに使用されている。食品の表示にこれらが含まれていたならば、それはビタミン剤ではなくて酸化防止剤と考えた方が正しい。もちろん、人間のお肌の老化防止にも有効と宣伝されている。
では、酸化で生じる臭いだけで新鮮さのすべてが説明できるか。もちろん、食品の話である。ほとんどが説明できそうだけれど、味や臭いさえもしない新鮮物質は無いのか。実際にはよくわからない。新しいビールは味わいの粒立ちが良くて、ダイナミックで、すべてが鮮明な感じがする。反対に、新しくないビールは、舌にざらざらした感じがする。味わいが平板になる。躍動感がない。これらも、どこまでが酸化で生じる風味の影響なのかわからない。
新鮮な植物や香辛料などには、新鮮さを増強するような働きがあるように感じられる。おろしたてのワサビや、大根や、カラシ大根などは強烈な新鮮風味を醸し出す。軽い魚の生臭みなど容易に消してくれる。焼いた鮎に欠かせない蓼酢も妙な味だけれど新鮮さを演出する。イチゴやブドウや梨やリンゴ、それにグレープフルーツなどの柑橘類の爽やかな風味も口の中一杯に新鮮味を与えてくれる。決して酸っぱいだけではない。クエン酸溶液では十分に得られない新鮮さがある。果物好きにとっては、甘さだけではなくてこの新鮮を感じさせてくれる正体不明の風味が大切なのだろう。
新鮮物質というものが存在するのではないかと私は睨んでいる。根拠はほとんど無いが、そう思うのだ。新鮮な物に特有の躍動感や鮮明さは酸化で生じる臭い物質がないという説明だけではどうも腑に落ちないからである。新鮮な果物や野菜などの新しいものにだけ存在する特別の物質があって、それは空気に触れるとすぐに失われてしまうにちがいない。人間の舌や鼻に作用して鮮明な透明感と躍動感を与えてくれる。夢の物質だ。残念ながら食品の新鮮さを担う共通の物質は誰も見つけだしてはいない。もしもそんな物質が発見されたら面白い。その物質を味わってみたい。
食品メーカーは急いでその新鮮物質を大増産するだろう。これを十分に染みこませておけば、食べ物の新鮮さが強調できる。鮮明な躍動感が長持ちする。化粧品メーカーも同様である。新鮮香のする洗口剤やシャンプーなんて素敵だ。車も家も衣類も道具も何でも新鮮香でリセットできる。スプレーが売り出されるだろう。そうだ、うちの古びた亭主にも新鮮スプレーが欲しい。案外新鮮物質の用途は広そうである。
出典「逓信協会雑誌」(平成18年12月号通巻1147号)