TOP / Trivia / 嗅覚を失った話

ひどい鼻かぜから始まった。

何年ぶりかで、ひどい鼻かぜを引いた。1週間以上も鼻水が止まらない。熱はないし食欲はある。寝込むことはないのだがともかく鼻がひどい。鼻をかむティッシュを抱えて生活をしているうちに、匂いを感じなくなってしまった。
 耳鼻科の医師の話では、原因は風邪かアレルギー性鼻炎だろうけれど、いずれにしても嗅粘膜に鼻水が膜を張ってしまったので、一時的に匂いを感じなくなったのだそうだ。すっきりしないが、まあ、そんなものなのだろう。ネコと同居しているからアレルギーかもしれない。
 時間が経てば元に戻ると安心はしたものの、味覚だけでは食事がどこかおいしくない。最初は気づかなかったのだけれど、どの料理も微妙に味が薄っぺらいようなのだ。味気ない。

タラコがおいしくない

 嗅覚が一時的にストップして気がついたことがたくさんある。好物のタラコを熱いご飯にのっけても、味は充分わかるのだが、今ひとつ感激できない。魚の匂いがしないというよりもタラコの味が感じられないのだ。正月の残りの塩数の子を戻して鰹節のダシにつけたのを試してみた。見た目は異常ない。歯ざわりも強い。しかし味が弱い。無味無臭のプラスチックのようなものをこりこりと噛んでいるだけなのである。
 吸い物は旨くないだろうと、初めからあきらめてはいたが、微妙なのだ。うまみはある。明らかにダシのおいしさなのであるが、コクや厚みが弱い。コクまでが匂いであったかと知らされてしまった。脂が乗った寒ぶりはいけるだろう。そう期待した。確かに醤油をはじくような脂は旨い。しかし、いつもの舞い上がるような旨さにならない。体調ではない。突き抜けるような脂の興奮にならないのである。

ご飯さえも匂いが重要だった

 匂いはおいしさの重要な要素であることは知っていた。鼻をつまんだら味がわからない。普段はそのあとですぐ鼻をつまんでいた手を放すから、笑い話であった。匂いがない世界は本当に味気ない。味だと感じていたものが実はほとんどが匂いの助けて成り立っていたことに驚いた。
 炊き立てのご飯さえも、驚くほど浅い味わいになってしまう。軽い硫黄臭のような、独特のくささがない。ご飯がサワヤカすぎる。土臭いような、糊のような匂いがない。それがご飯のリアリティーであったのだ。
 エビフライはそれなりにおいしい。しかし、皮一枚かぶせたような、飛び出してこない味わいなのだ。エビのおいしさは確かに味覚だ。匂わなくてもエビはおいしい。しかし、どうにも味が痩せてしまっている。
 天ぷらやフライのころもは舌ざわりはあるものの、少し焦げたような油の匂いがしない。フレッシュすぎる。これが全く物足りない。特にかき揚げ天ぷらは油の香りで食べていたようで、鼻がきかなくてはまるでおいしくない。
 ロースハムの脂のおいしさにさえ、燻の香りの後押しが必要であることを痛感させられた。これも満足できない。
 不思議なことに、鼻が利かないと食べ物に対する執着が弱くなる。口に含んだ後で風味がさらなる食欲をかき立てていたようなのだ。おかげで、食べる量が減ってしまった。食いしん坊には鼻つまみダイエットも有効であるなと冗談の一つも言いたくなる。

おいしくなるものもあった

 地元の料理に、身欠きニシンを糀に漬けるのがある。おいしい期間が短くて、置いておくとクセが強くなる。すこし時間がたっていたので普段ならば臭みが出る頃なのだが、これが、意外にも旨かった。少し渋みがあるが酒の肴にもちょうどいい。多分、鼻腔と口腔が交わるあたりの領域にわずかに残っていた嗅覚が弱いながらも働いているのだろう。匂いを欠いて味が減退する料理が多い中で、これはうれしかった。清酒自体はあっさりしてしまっているが、この肴のおかげで満足できる。

明太子のおいしさで回復を知る

 さて、2週間たってほぼ完全に回復した。それとわかったのは、辛子明太子がいつもの魚っぽいおいしさを発したからだ。ご飯が進む。アジの開きも昔のように旨い。匂いがなくては魚介類は楽しめない。かすかに生臭いの手前ぐらいが、おいしさには絶対に必要である。たくわんに味も昔に戻った。梅干だって、おいしさは香りにあった。寿司のおいしさは、海苔と醤油とワサビと生魚の匂いを食べていたことがあらためてわかった。
 味気ない2週間であったが、味の多くは匂いであったことを感じさせる貴重な体験であった。

出典「逓信協会雑誌」(2006.3月号)