松茸は言わずとしれた秋の風物詩、秋の最高級食材の一つでもある。最近はカナダや、韓国、中国、北朝鮮などからも大量に輸入される。山の中に生えている何でもない茸が日本では1本数千円で売買されているのだから、周辺国が日本に輸出を考えないはずがない。おそらく、訳のわからないものに大金を払う変な国だと思っていることだろう。
確かに、松茸には松茸の特有の香りがする。歯触りだけなら他の茸でもある程度代わりができるが、あの香りは真似ができない。私も大好きだ。ところが、あろう事か、フランスの若手有名シェフたちは、あのおいしさがわからないようなのだ。数年前、日本料理アカデミーがフランスから招いた新進気鋭の料理人たちが、京都の老舗料亭で数週間研修を行った。老舗料亭の若い当主たちとのコラボレーションでもある。成果の発表会があべの辻調理師学校であった。シェフたちは松茸を材料に取り入れて、思い思いの料理を創作した。季節が秋だったので、松茸も食材として多用された。
&llt;p>「ところで、松茸のおいしさはわかる?」
司会者らの質問に彼らの多くは言葉を濁した。
「森の香りがする」
「自然の匂いだ」
表現はエレガントだけれど、どうも大好きではないらしい。
「フランス料理の華、トリュフとどっちがおいしい?」
もちろんトリュフである。比べるまでもない。露骨ではないがそんな返事だった。
料理人でさえその程度だから、一般のフランス国民はわが松茸を屁とも考えていないに違いない。いや、全世界の国民の意見もそうなのだ。
私は、松茸は大好きだけれど、彼らの絶賛する高級トリュフのおいしさはよくわからない。フランス人が松茸を評したように、独特の香りだねと言うしかない。どうしてこんなズレが起こるのだろう。
わが松茸も、これほど賞賛されるようになったのは遠い昔ではない。かつて肉が貴重であった高度経済成長以前の時代は、山も豊かで秋にもなると松茸などごろごろしていた。少なくとも1本数千円というような法外な値段ではなかった。すき焼きには貴重な牛肉と安い松茸が共存した。
「これこれ、肉ばっかり食べないで松茸食べなさい」などと母親の指導があった家庭もあったろう。
松茸は確かにいい香りがする。しかし、その賞賛は、明らかに現代日本人が作り上げてしまったものである。安価な時代には、それほど神秘的な香りでもなかった。
香りに優劣はないというのが私の持論である。食物の香りは食物を識別するための信号に過ぎない。香り自身は平等である。
それが旨いかまずいかは、幼児期からの食体験や価格・希少価値などの情報、そして必要な栄養素がどれだけ含まれているかという栄養価値などが大きく影響する。匂いはそれらを記憶するためのラベルの役目を果たす。匂いの記憶は正確で長命だからだ。
松茸には、秋らしい風情と、抜群の歯触りやザックリ噛みちぎるときの心地よい響き、他の茸にない鮮明な香りがある。そして、とびきり高価である。この4つが松茸のおいしさの主な理由である。特に最後の要因も大きい。松茸の市場価値を理解しないフランス人料理人たちの評価もあながち間違ってはいない。私たちだって彼らの絶賛する高級トリュフを変な香りなどと言う。
香りの好みは絶対的ではないのである。では、なぜ、松茸の香りが日本人にだけ特別に美味しいのか。それは学習である。
「あれは、高価だけど、おいしい」
みんながそのように学んだのである。まだそれを学んでいない幼児に選ばせたら、松茸に飛びつく子供は少ないだろう。
外国の食べ物や香りに対して、私たちの味覚・嗜好は子供同然である。経験しない香りについては違和感が先に立つ。トリュフの味わいが深く理解できる小学生なんて想像できない。
松茸のおいしさにケチをつける気は全くない。おいしいものの中には、そのように教えてもらったからおいしいという形もあると言いたいのだ。むしろ、私たちの食べ物の多くは、誰かに教わったものであることが多い。本場の味とか、旬のおいしさとか、通好みとか、どれも信頼できる人や情報から学んで身につけたおいしさである。
学んだおいしさは本人の食体験を反映する重要な好みである。一度身についたら長く忘れることはない。私は高価になってからの松茸のおいしさを十分学習して好きになっているから、秋になって松茸をいただいたらもちろん驚喜する。おいしさをたくさん学んだ方が喜びも増えるというものだ。
出典「逓信協会雑誌」(平成19年11月号通巻1158号)