TOP / Culture / 聖護院かぶのルーツを探る

千枚漬けの材料である聖護院かぶの起源は、江戸時代初期に近江国・堅田から京に持ち込まれた近江かぶ(近江かぶら)であるとされてきました。この聖護院かぶが成立した経緯について、これまで考えられていた説と最近明らかになりつつある説を紹介したいと思います。現在、聖護院かぶの起源について、伝承と文献の検討から次の三つの経緯が考えられています。

聖護院かぶの真の原種は?

聖護院かぶと近江かぶの一代雑種における形の遺伝=渋谷茂・岡村知政著「蕪菁一代雑種に関する研究」、園芸学会雑誌第26巻1号(1957年)から抜粋・改変

『京洛野菜風土記』(植木敏弌著、1972年)に「享保年間に近江・堅田方面から扁平な形の近江かぶが京都・聖護院地域に導入され、栽培を続けるうちに丸い大型のカブ(聖護院かぶ)になった」とあり、この説が広く受け入れられています。

しかしすでに、1957年に、遺伝学的には聖護院かぶの丸い形は優性形質であり、近江かぶの扁平な形は劣性形質であることを示唆する研究が発表されています。したがって、聖護院かぶができた過程では、近江かぶと他の丸いカブとの交雑が起こったことが考えられ、どちらのカブが聖護院かぶの真の原種かという新たな疑問が生じます。

この説に対して、聖護院地域に伝来した近江かぶは扁平な形のカブではなく、丸い大カブであったという説もあります。このカブは、江戸時代初期の文献に見られる兵主(ひょうず)かぶですが、今では絶滅してしまいました。

DNAから調べるカブの近縁関係

これらの説とは異なる伝来の経緯を示唆する分献が、最近、明らかになりました。「時慶卿記』(西洞院時慶著、1629年)に「寛永6年に淀城主松平定綱が時慶に兵主菜(蕪)一籠を贈った」ことが記されており、享保年間より100年前の寛永年間に、京都市南部の淀地域で兵主かぶが栽培されていたことがうかがえます。

龍谷大学農学部では、2015年に大津市農林水産課を通じて近江かぶの種子を入手し、様々な種類のカブと比較研究を行っています。その一つとして、DNAマーカーを用いて、近江かぶ、聖護院かぶ、天王寺かぶ、松ヶ崎浮菜かぶとの近縁関係を調べました。天王寺かぶは大阪・天王寺地域で栽培されていたカブで、近江かぶとの関わりが考えられています。松ヶ崎浮菜かぶは、葉と茎がミズナに似たカブで、丸カブとミズナの交雑種と考えられます。この調査の結果、聖護院かぶと天王寺かぶ、松ヶ崎浮菜かぶは互いに近縁であること、他方、これらの3種のカブと近江かぶは遠縁であることがわかりました。

これまでに行ってきた伝承と文献の調査、およびDNAレベルでの類縁関係の解析結果を基にすると、近江かぶから聖護院かぶができた経緯は次のように考えられます。

聖護院かぶは享保年代に近江国・堅田から伝来した扁平な近江かぶを基にしてできたものではなく、近江国・兵主で栽培されていた丸い白カブ(兵主かぶ)が江戸時代初期までには現京都市南部の淀地域に伝わり、後に北上して聖護院地域で栽培が盛んになりました。そして、栽培地の名を冠して聖護院かぶと呼ばれるようになったものと考えられます。

出典:2018年6月13日(水) 京都新聞