二十一食目
『おばんざい 秋と冬 京の台所歳時記』
秋山十三子、大村しげ、平山千鶴著
(河出書房新社)
綺麗な言葉と正しい言葉というのは必ずしも一致しない。
友人に、今どき耳にすることのない正統派の大阪弁を使う男性がいるが、言葉の抑揚といい、テンポといい、流れるように語られるその言葉は聞いていて惚れ惚れする。関西弁のことだから、決して正しいとは言えない言葉遣いも多く含まれてはいるのだが。
私は、社会において正しいとされる言葉とは別の、美しい言葉や綺麗な言葉というものが確かにあると思う。
京ことばと言われる、いわゆる京都弁もそうで、柔らかな印象と独特の言い回しは聞いていて気持ちが良いものだが、近頃はこちらもまた、とんと聞かなくなってしまった。
言語の均質化は核家族化だけでなく、メディアや交通機関の発達にも原因があるだろうが、その結果、変質し失われていくのは言葉だけではない。文明の進歩による生活習慣の変化は、文化や風習すべてに様々な影響を与える。
一概にこれを悪いことだと決めつけることはないが、連綿と繰り替えされてきた日々の暮らしの美しさに、心が動くのもまた事実である。
今回の本『おばんざい 秋と冬 京の台所歳時期』は、家庭の台所を任される京おんな3人が持ち回りで日々の食事や季節の風習を綴った随筆をまとめた物で、1964年に朝日新聞京都版で連載されたものが原典となる。
「おばんざい」は家庭で日常的に作られる惣菜を意味する言葉で、近頃では飲食店、特に観光客に向けたお店の軒先でよくこの言葉を見かけるが、実は最初にこの言葉を世に知らしめたのは本書だと言われている。
京都には、おばんざい以外にもっと簡単な日々のおかずを表す「おぞよ」という言葉があり、本書でもよく用いられているが、今この言葉を使う人は殆どいない。
そんな京ことばで語られるおばんざいの多くは、本来の、いわゆる「料理屋の料理」というものではない。難しい調理技術は必要なく、材料も当時は何処ででも手に入る普通のものだ。
しかしそれら普通の料理の一つ一つが、驚くほど丁寧に、手間をかけて作られていたことが著者の言葉の端々から伝わってくる。
男女の別なく、日々の食事の支度にかけられる手間も時間も時代の流れと共に変わっていくのは仕方ないことだが、それにしても昔の女性が家事にかけていた労力には頭が下がる。現代の女性はこれに加えて仕事もこなすわけだから、これまた頭が下がる。
しかし、食材も人の生活も、家族や町の在り方もすっかり変わってしまった今では、おばんざいはもう本当に贅沢な料理になってしまったのかもしれない。
本書を読むと、料理の美味さというのは口で感じる味が全てではないことに気付かされるし、歳を重ねるごとにそれが思い込みではないことは、身をもって知ることになる。
また年を経て、そういう味が判る舌を持っていたいとも思わされる。
本書には様々な発見もある。
例えば、9月の項に枝豆。
秋口に枝豆とは、と不思議に思い読み進めると「茶色にかわった塩からい皮をかむと、まっ青な、つるっとした実が口に残ります」という一節があった。
今では枝豆といえば鞘も豆も緑のものが当たり前だが、昔は秋口に樹熟と呼ばれる熟した枝豆が出回っていたらしく、初夏のものに比べて豆が硬くなるものの、十分に熟した美味さは我々の知るそれとは別で、大変に美味いらしい。こういった枝豆は生産者、消費者のそれぞれの事情から、現在ほとんど市場に出ないそうで、これもまた幻の味となってしまったようだ。
すきやきの項も面白い。
家ですきやきをする時は仏壇の扉をしめ、畳の上にござを敷き、使う食器もすきやき専用のもので、箸にいたっては割り箸を使い、食後に捨ててしまっていたとある。また、使った器を流しで洗うことは許されず、流しの下で念入りに洗い、それを煮沸してから初めて流しの上に置くことが許されたともあった。
著者は全員が1920年前後、大正初期の生まれなので、舅や姑は凡そ明治の生まれ、大舅や大姑は、下手をすれば江戸時代の生まれとなるので、これも致し方ない風習だったと思うが、それよりも、その様な手間をかけてでも肉を食べるという、人間の根源的な欲求に興味がわく。
著者である3名の女性は、みな一様に日々の暮らしの小さな変化から季節の移ろいを感じ、その日の夕飯を考え、また来たるべき季節に向けての準備をしている。それは先人の知恵であり、その知恵は今の我々の生活にも十分に役立つことが多い。しかし、私はこれを美しい暮らしやスローライフという言葉で現そうとは思わない。
当時の暮らしは、今に比べ夏はより暑く、冬はより寒かっただろう。生活に便利な道具も少なく、家事に今の何倍もの手間がかかったことは想像に難くない。日々の暮らしから季節の移ろいを感じるということは、同時にそれだけ自然の厳しさを知っているということであるし、自然と対峙して生きていることの結果でもある。
そういう意味で本書は、単に失われた美しい日常を書いたものではなく、京の街に暮らした名もなきの人々の歴史の蓄積でもある。
それゆえ、私たちはこの本から多くのことを学ぶことができる。
その中には私たちの生活を豊かにしてくれることもあれば、戒めとなることもある。
時々は、本書に紹介されるおばんざいを作ってみたり、時候ごとの様々な風習の真似ごとをしてみたりしながらも、私はそれが決して現代に生きる自分のリアルではないこと、そして人の暮らしというものは全てが地続きで、それを都合よく剽窃するだけではいけないことを忘れずにいたい。
そんなことを考えながら、今夜もおばんざいで一献かたむけるのを楽しみに、この原稿を書いている。
写真/伊藤 信 企画・編集/吉田 志帆