TOP / Culture / ラーメンは和食か

11月24日は和食の日。私は和食を推進する国民会議に参加している。グローバル化の今日、和食の定義は活動の焦点に関わる問題であるが、いまだに結論は出ない。どんな定義を試みても山のような例外や境界領域が現れる。食は変化し続けるのだ。

欧米で人気の日本のラーメンも然り。これは和食か? 現地では「これこそがニッポンのUMAMIだ」と勝手に納得している。

国民会議は食の歴史、民俗学、郷土料理、食品の開発研究者などの寄り合い所帯である。歴史学者はとうぜん、「ンなことは当たり前でしょ。ラーメンなんて。」と冷淡である。「しかし、海外では和食の代表格ですが」というメーカー関係者の声も決定力が乏しい。

専門家を増やしたら解決するとも思われない。文化人類学の友人に聞いたら、「あんた、そこに存在するもののみを捉えてはいけない。常に変化し再構成されるプロセスこそが文化である。ラーメンは和食の変容を表しているかを問題にすべきだ」とか説教をくらいそうだ。
飲み屋で社会学者の知り合いに話したら「問題のラーメンはそれを生み出した人間の社会的行為として議論する必要がある。伝統的社会体系の構造変容の意味が焦点だ」とか言われそうだ。おまけに、「現地調査が杜撰だ」とか突っ込みが入るにちがいない。
調理科学の友人に漏らせば、「中・日ラーメン呈味成分の比較解析」と題した膨大な研究の予算要求に発展してしまう恐れがある。
料理研究家が、「和食ラーメンには少なくともナルト3枚が乗っていることが必須である」なんて主張したらこれも厄介だ。問題がナルトの定義にまで拡散する。

劇作家別役実が動物雑誌の連載コラムで「犬とはなにか」を明快に定義して読者を呆然とさせた。これは使えるかもしれない。
すなわち、「和食でないもの以外は、例外なく和食である。」

本文中の人物の発言は大半が架空または酩酊状態での発言であることをお断りしておく。