今まで映画で見た中で最高においしそうなビールがあった。荻上直子監督の映画「めがね」の中で、登場人物たちが、寒村の浜辺で並んで飲むジョッキのビールである。何もない浜辺で、ぼーっと「たそがれ」ながら旅館の主人らが飲むビールはなぜか絶品のように思われた。それは、記憶に残った。
この夏にスロベニアの港町でそれを思い出すビールに出会った。スロベニアはクロアチアとイタリアの間にある人口200万ほどの小さな国である。私の泊まった港町はアドリア海を挟むベネチアの対岸に位置していた。学会のために出かけたのだが、五日間宿泊したホテルが海に面した見通しのいいところだった。仕事が終わった夕方に、海岸のレストランの屋外に張り出したテーブルでジョッキのビールを飲んだ。通行する人と至近距離で対峙する席は、いかにもヨーロッパ風で楽しい。
時間は日本では夕方なのだが、ここの太陽はまだまだ高い。湿気がないので日陰に座ると風が見事にすがすがしい。汗が粒にならないで気体のまま風に乗って拡散してゆく。ようやく日が沈み始める9時頃まで、ゆっくりとビールを楽しんだ。ほんとうに何もないところなのに素敵に心地よい。
日本を出発する前は、学会準備やら留守をするための後始末やらで、忙殺された。すべてが時間切れの中途半端な苛立ちのまま、倒れ込むように飛行機に乗り込んだ。機内のワインを立て続けに飲んで無理に寝た。日本を逃げるようにしてたどり着いた港町である。それまで、よれよれになっていた心のしわが、ジョッキのビールでゆっくりと伸び始めるのが感じられた。
映画と同じく、酒の肴はない。ただ、岬を遠くに眺めながら、ゆっくりとジョッキのビールを飲むのである。銘柄もなにも知らないが、この夏最高のビールであったことは確かである。
旨いビールを発見してから、正確には、旨いビールが飲めるレストランの屋外のテーブル席を発見してから、夕刻になるとそこに座りはじめるのが学会中の楽しみになった。もちろん、夕方の風に当たりながら、名前を知らないビールをジョッキで飲む。夜までには会場で知り合いになった何人か通り過ぎたが、にっこりと会釈だけして、あとはぼうっとしていた。陶酔と言うよりも、ただ、白い麻布のようにさらっと希薄な時間だったように思う。
3日目になって、レストランのメニューから偶然そのビールの銘柄を知った。滞在している街中でよく見かける普通のビールだった。ホテルの冷蔵庫のミニバーにも瓶がちゃんと並べてあるではないか。
しかし、おきまりの席以外ではもうビールを飲む気がしない。夜の食事には白ワインばかりを飲んだ。
街中にイタリアの食文化が色濃く満ちていて、生ハムが前菜にあり、手長エビのリゾットはご飯粒がぷっちりしてうま味は濃く、ポルチーニのパスタは深い味があった。蛸やイワシやムール貝などの魚介類もうま味の強い、深い味だった。馬刺しのような赤身の生の牛肉はこの地方の名物らしかった。ホースラディッシュをたっぷりなすりつけてたくさん食べた。あっさりして飽きの来ないおいしさである。街中では白ワインが断然旨かった。夕方にビールで元気を得ていたので、夜の食事もおいしかった。10時を過ぎると街中に人がぐんと増える。食事の時間のはじまりである。深夜まで、街は騒がしい。
旅の終わりに、空港の待合いにあったビアカウンターで例のビールを飲んでみた。思った通り、港町のレストランの風のあたる席のビールの味ではなかった。少し濃くて胃にもたれる酸っぱい味がした。
それ以降、残りの夏は日本で飲むビールが気になり続けた。もちろん日本には港町で見たビールは見あたらない。それでも、レストランの景色のよいところに席を取って日本のビールを試してみるのだが、あの心地よさはどうにも再現されない。場所や風の質もビールには重要のようである。なによりも、日本の現実の世界に引き戻されてしまった後では舌が駄目みたいである。
ビールは気分と身体で飲むものであることをこの旅行中に痛感した。現地にゆかなければ現地の味わいがない。もう、スロベニアに行って何もせずに「たそがれる」時間を過ごすことはないだろうから、人生最高のビールを贅沢に飲んでしまったようでいささか寂しい思いをしている。
出典「逓信協会雑誌」(平成20年11月号通巻1170号)