海外に住むとたまには鍋を囲んでスキヤキがしたくなる。有名なスキヤキをごちそうしてほしいと親しくなった現地の人にせがまれることもある。しかし、海外でスキヤキを作るのは非常に難しい。醤抽は日本のメーカーのものでなければ旨くない。台湾や中国産ではスキヤキらしい味にならない。糸こんにゃくや菊菜やモヤシなどは最初から期待しないが、ネギくらいは欲しい。
問題はあの超薄切の牛肉だ。極薄に切った牛肉は日本ではどこでも売っているのだが、アメリカで探すのは困難きわまりない。日本人や日系人の多いところでなければこれを手に入れるのが実に難しい。
「おじさん、薄く薄く切ってよ。ティッシュペーパーみたいに」
何度も念を押す。
「オーライ、努力してみるよ」
返事は悪くない。それでもできあがりはティッシュペーパーというよりは手帳ぐらいの厚さが限界なのだ。
ヘタに厚く切った牛肉をスキヤキに使うとおいしくない。脂身のうまさも半減する。出来損ないの角煮みたいになってしまうのだ。スキヤキのおいしさは肉を極限まで簿く切る技術に支えられていることが海外で実感できる。
日本の牛丼は海外でも評判が高いが、これも肉を薄く切っていることが好評の一因に違いない。味わいが繊細になる。
ハムのように堅ければ機械で切れる。イタリアの生ハムは薄切りがふつうだ。しかし、生の肉まで薄く切る日本の食文化は世界でもめずらしい。
「どうして、分厚い肉を食べないのだ」
外国では不思議に思われることが多い。明治の頃は今で言う焼肉みたいなものだったらしいから、薄く切るようになったのは大昔ではない。肉の自由化の前で値段が非常に高かった頃の苦肉の策のように思う。しかし薄い肉が日本独自の味わいを作り上げたのだ。
薄く細く仕上げるのは日本の伝統の技だ。和食の料理人にとって極細や極薄は大切な技術である。日本料理の随所に包丁の腕が現れる。刺身のつまになる大根のかつらむきも薄い。ちぎれないように長く剥くのは板前修業の基本である。まるで金箔か絹糸のような錦糸タマゴも工芸と言うしかない。
見かけは同じ薄切りや細切りでも、プロの料理人の包丁の切れはすばらしい。電子顕微鏡で切り口を拡大して観察すると、素人の包丁とは違って切り口が格段になめらかである。表面が荒れていない。この微妙な違いは舌にさわる感触の違いとなる。顕微鏡でしかわからないような違いも、人間の舌ははっきり感じとることができる。
フグの刺身、いわゆる「てっさ」は皿の模様が透いて見えるほど薄いフグの肉が皿に敷き詰められる。何にもないように見える皿の表面に刺身が並んでいる。驚きである。
夏の京料理では鱧の骨切りも見事だ。一寸の幅に二十五、六筋もの包丁が入る。さくさくと骨を切る音。そのテンポの良さは音楽でもある。夏の京都では新鮮な魚は鱧くらいしかなかった。貴重な魚であるが小骨が多い。仕方がなく、舌に感じないほど細かく包丁を入れる。腕の善し悪しで舌触りがまるで異なる。
薄く削ることで味がよく出る素材もある。おぼろ昆布や花鰹は風に乗って飛んでゆくほど薄い。長年の修行で培われた技術である。
料亭ばかりではない。道路端のラーメン店にも繊細な極細白髪ネギが添えてある。絹糸のような光沢の真っ白なネギがまぶしい。これ一つでラーメンの味わいも変わる。
日本では主婦も薄く切る技術を身につけている。家庭で作るトンカツや牡礪フライの床に敷く細切りのキャベツなど外国人を驚かせる。
「日本の主婦はまるで職人のようだ」
米国からの客員教授が驚嘆した。
もちろん、薄く切るためには、食材に適した切れ味のよい包丁が必要である。まな板も重要だ。日本ではどの家庭にも立派な包丁とまな板がある。切ることを大切にしている食の文化が生きている。
夏のそうめんには、土ショウガやネギやキュウリなどが細く薄く切りそろえられて、細い麺の舌触りとよく調和している。薄く、あるいは細く切るのはそれなりの理由がある。日常の家庭料理の中にも浸透している。
素材の良さを生かすのではない。極薄くあるいは極く細く切るとまったく新しい素材に生まれ変わるのだ。極薄や極細は見た目にも緊張感を生む。同時に、舌や口の中にさわる食感の繊細さが心地よい感覚を演出する。同じ食材でも包丁一つでここまで引き立つものかと感心させられる。
そのために料理人は修行する。主婦も練習する。薄く、細く、美しく。執念がこもった日本の技が旨い。
出典「逓信協会雑誌」(平成19年7月号通巻1154号)