京都「坊主バー」の店主で僧侶の羽田高秀さんが、さまざまなジャンルのゲストを迎えてトークセッションを繰り広げるこの企画。前回に引き続き、龍谷大学・野呂靖准教授をゲストに「日本仏教における不飲酒戒の変遷について」「何故日本の仏教者は飲酒に寛容なのか」について語ります。
中井 この対談のためにネットでいろいろと調べたのですが、あるお寺のサイトには、お酒について「全く飲まないで悟りを開くか飲んで悟りを開くことを諦めるか!」
と書いてありました。これについてはどう解釈すればいいですか?
野呂 いや、飲んで悟りを開く方法もあると思いますよ。
羽田 上座仏教などでは「悟りのためにはお酒を飲んではいけない」という強い戒律のある宗教もあります。
野呂 タイなど東南アジアの国の仏教はそうかもしれませんね。ただ、日本に伝わった大乗仏教は出家者だけでなく、一般人のための仏教でもあります。そこでは、一般人がいかに仏教と関わっていくかが命題です。ということは、お酒を飲むか飲まないかというよりも、普段はお酒も飲んでいる一般の人たちが、どう仏教と関わるかということが大切な話なのだと教えているんです。
ときには、お酒を飲むことで心がほっこりして、何かが閃くということもありますから、決して悪いことばかりではない。
羽田 遺伝子の暗号について発見されたある科学者は「科学の発見は夜つくられる」と書いておられました。学会で議論した後に、みんなで飲んでまた議論して、そこで新しい発見が醸し出されることがあるそうです。
野呂 私たち研究者にとっては、学会の後の懇親会が大切で、そこでお酒も入って、忌憚のない意見が交わされることによって、出合いや気づき、新しい何かが生まれます。
羽田 気づきという意味では、心をオープンにしておくことが大切です。日本人は、人前でそんなことをしたら恥ずかしいとか、自分のことをオープンに誰にでも話せないと思っています。酒場に行きたいと思っても、「常連が多い店には一見は入れない」と勝手に思い込んで自分の周りに囲いをつくり、どんどん孤独になってしまう。
野呂 仏教の大きなポイントのひとつに、こだわりをなくすことがあります。それは、「私はこういう人だとか、こうしなければと思うことが、結局は自分をガンジガラメにしてしまうのだ」と言うことです。私らしさというのも、私のなかに本来あるのではなくて、実は他人とのかかわりのなかになるのだと仏教ではいいます。
学生のなかにも、面接など就職活動のなかで、なかなかうまくしゃべれないのは、自分が「コミュ障(他人とコミュニケーションをとるのが苦手)」だからと言う人がいます。けれど、それは会社の社長など偉い人が相手だからで、友達だったらそうではないはずです。条件が変わると人は変わるのです。その状況を「自分の思い込みだ」と気づいたら楽になるよと仏教はいうんです。
お酒も同じで、お酒を飲むことで「自分が開かれていく」と思えばいい。自分をほぐしたり、開いたりすることで人とコミュニケーションが上手く取ることができるようになれば、お酒も「思い込みに気付く」ツールといえるかもしれません。
中井 自分ひとりで「力をぬく」のは難しそうですものね。
羽田 単にお酒を飲めば楽になるというのではなく、コントロールされた空間で、癒されつつ気づきをもって飲めば、自分を解き放ちいい方向に迎えるのでしょうね。
中井 羽田さんは、実際にこちらで、人生相談をうけることもございますか?
羽田 相談が目的でいらっしゃる方もたまにはあります。開店時間すぐにいらして、話を聞いてほしいとおっしゃいます。そんなときはまずは聞いてさしあげる。話すことで心がゆるむこともありますから。
野呂 実は私も、「死にたい」という思いを抱えた方の相談機関に関わっています。お酒はでないのですが「おでんの会」などを開いて、みんなでお鍋を囲んでいろいろなお話します。
中井 そこに来ることで、考えを変える方もいらっしゃいますか?
野呂 すぐには変わりませんが、そういう方たちにとっては、一緒に鍋をつつく人がいるということが大きい。すぐには解決しない問題が多いけれど、自分の状況を分かってくれる人がいることで、死にたい気持ちが少し落ち着く場合があります。
羽田 少し前に「命の深呼吸」という映画が公開されていました。臨済宗の僧侶のお話ですが、彼は生活が荒れていたことがあって、改心しようと臨済宗のお寺に入る。
そこに、悩み相談の電話やメールが来る。そこで、その人が相談相手に会いに行って、話を聞いたりお世話をしたりする。寄り添うことで相手も変わるし自分も変わっていく。仏教の観点からも人との関わりが大切だと感じる映画でした。
中井 一人で悩むことが追いつめられる結果になるのかもしれませんね。一緒に食べたりお酒を飲んだりするだけでもいい。
羽田 野呂先生は死者とのコミュニケーションはどう思われます?
野呂 重要だと思っています。亡くなっていかれた方や、神仏など、目に見えない存在との「対話」は宗教文化を考えるうえでとても大切なポイントです。
羽田 それで癒されている人も実はいるんですよね。亡くなった方と話すことで、罪の意識が軽くなったり、長らく思い詰めていたことから解放されたり。
野呂 死者とコミュニケーションをとるような感覚を持っている人がいます。東北のイタコのように、目に見えないものが見える人。
現代の科学では、そういうことは否定してしまうのですが。
野呂 最近、知人の文化人類学者から聞いた話ですが、日蓮宗の僧侶が、あるおばあさんの葬儀を行ったところ、後ろのほうで葬儀に参列していた子どもたちが騒ぎ出したんです。
葬儀壇の横に、1年前に亡くなったおじいさんが立っていて、おばあさんと手をつないでいると言うんです。
子どもたちには大人に見えない不思議なものが見えるのだなぁと話していると、子どものひとりが「小さな子どもも立っている」と言い出したんです。
おばあさんのご遺族の方に、その話をしたところ、実はお二人の間には、生まれてすぐに亡くなった子どもがいたそうです。
羽田 それはよく聞くことがありますね。迎えにいらっしゃるんです。学者さんでも、その現象について研究されている方がいらっしゃるけれど、その結果はなかなか大きくは伝えられない。
僧侶のなかにも、そういう体験をされている方はたくさんいらっしゃいますが、言わないのが暗黙の了解になっています。
野呂 幽霊のような存在は、本来、仏教の教えには説かれません。でも、そうした存在を感じるお坊さんのお話は現実にあるわけです。現代のお坊さんの不思議な体験は、最近、欧米の文化人類学者らによって注目されはじめています。
中井 海外の方から見ると「日本の不思議」はいろいろとあるようですね。お酒についても、飲みたくもないのにダラダラ飲んだり、人に言われて飲んだりするのは、日本独特のことと思われているようですが…。
羽田 日本人はみんなで一緒に飲んでみんなで一緒に帰っていく。海外の人は、飲みたければ一人でも飲みにいくし、帰りたければ一人で帰る。お酒の飲み方にも、きちんと自分というものがあるからでしょう。
「周りと一緒に行動しなければいけない」と思い込んでいる日本人の体質が、お酒離れを進ませている要因でもあります。
中井 そういえば、今の20代は、お酒をのまなくなっているようですね。
野呂 最近の学生は飲みませんね。飲み会をやってもジュースを飲んでいる人が多い。そういう意味では、彼らは自分というものを持っているし、周りの人に無理強いをしません。そういう時代になってきているのでしょう。
中井 僧侶同志の飲み会(笑)はどうですか?周りが飲むから飲むとか、飲まなければいけないような場はありますか?
羽田 浄土真宗ではそれはありません。
野呂 浄土真宗は僧侶だけでも3万人もいるので、考え方も人それぞれです。自分で判断すべきことだと、みながわかっています。
中井 それが「戒」ということですか?
自分にとって酒は「毒か薬か」を僧侶は知っている。私たち一般人もそれを判断できるようになるのでしょうか?
羽田 飲み方次第ということですよね。お酒は毒にもなるし薬にもなるということをわかっておくことが大切です。また、それを知っている人がいて、迷っている人に教えてあげる、教えてもらうことも大切なのでしょう。
野呂 それはまさにこの「坊主バー」のような場所でもあるのでしょうか。
羽田 変な経験をしないように、先輩やお店の人、つまりここならバーテンダーである私が、導いてあげられればいいと思っています。
お酒を介して「人が癒され落ち着ける」ということに私はフォーカスしています。
非日常な空間でお酒を飲むことで、自分をとりもどす。そして、さらにその先に野呂先生がおっしゃっていたような「仏教の入り口」があればいいと思います。