京都「坊主バー」の店主であり、浄土真宗僧侶の羽田高秀さんが、さまざまなジャンルのゲストを迎えてトークセッションを繰り広げるこの企画。第一回目は、龍谷大学・野呂靖准教授をゲストに「日本仏教における不飲酒戒の変遷について」「何故日本の仏教者は飲酒に寛容なのか」について語ります。ファシリテイターを務めるのは「本願寺新報」でも連載するライターの中井シノブさん。
中井 仏教には、お酒を飲んではいけないという決まりがありますよね。
羽田 『四分律』という仏教の規則のなかにそのように書かれています。確かにそれに則ると飲んではいけないことになりますね。
野呂 仏教の戒律はいくつかあるんですが、一般の信者もこころがけるべき五戒という5つの習慣が有名です。例えば、生き物を殺してはいけない、嘘をついてはいけないなどがあって、最後にお酒は飲んではいけませんという飲酒戒があります。
羽田 もとはインドでできたとされていますが、それも最初からではなく、途中でできたものなんです。
野呂 実はお釈迦様は、絶対にお酒を飲んではいけないとは言っていなかった。それが変わったのはある僧侶の失敗からです。出家者向けの規則を定めた『四分律』には次のようなお話がでてきます。
ある時、竜があらわれて村を襲いました。その時、人気者のお坊さんが神通力でその竜を追い払った。すると村人は喜んで、そのお坊さんにお酒を勧めて接待したんです。ところがお坊さんは調子に乗って飲み過ぎ、乱痴気騒ぎをしてしまったんですね。
羽田 飲み過ぎずに終わればよかったのに。
全員 惜しい!
野呂 それをお釈迦様が見られて、こういう失態を演じるのが一番いけないことだと。そして、これより以降は飲んではいけないとおっしゃった。そして、もし飲んでしまった場合は、一定期間仲間の前で「反省」しなさいと。
殺生をした場合は、問答無用で教団から追放されますが、飲酒は反省するだけでいいんです。ある意味ゆるい。
羽田 戒律の「戒」と「律」とは別ということです。「律」は法律で厳しく規制することだけど、「戒」は、自分で自分を戒めること。
野呂 「律」にも、飲んではいけないと書いてはありますが、但し書きには、体調が悪い時や体を温めるときには、薬代わりにしてもよいと書かれている。お酒は“建前”として「飲んではいけないもの」だったとみることもできますね。
中井 浄土真宗では、飲酒には厳しい規制はないのですか?
羽田 うちの宗派には、そもそも戒がないんです。このバーに来られるお客さまにも「僧侶がお酒を飲んでいいんですか」と聞かれます。
中国では当然禁止されているので、中国人のお客様は驚かれます。そういうときは、「飲んでいいわけではないけれど、日本では歴史上自由になった時期があるから」と説明しています。
中井 歴史上とは?
羽田 実は結構最近ですが、明治維新の頃に、僧侶が飲酒することは咎められなくなった。
中井 それまでは国も、飲んではいけないとしていたということですか?
野呂 浄土真宗は教えのうえで戒律を必要としない宗派なので、好き放題飲んでもよいとはいいませんが、特に罰則はありません。ただ戒律を受けていることが原則の宗派では、やってはいけないと思いながら、飲んでいたというのが事実でしょう
中井 後ろめたい気持ちがありながら飲んでいたということ?
野呂 だからあの有名な「般若湯」があるんです。もとは中国で「般若湯」といってお酒を飲んでいた。般若とは智恵という意味なので、智恵を授かると。そして、お酒というところを、中国語でスープを意味する「湯」にしてしまった。いわゆる隠語ですね。
羽田 薬のようなイメージもあります。「葛根湯」みたいなことです。
野呂 こちらのお客様の層は?他の宗派の方が飲みに来られることもありますか?
羽田 はい。禅宗 浄土宗 真言宗、日蓮宗の方も来られます。
中井 その時は宗派を超えてお坊さん同士が飲むわけですよね。
羽田 そうですね。当然一人ではなく、友達同士で来られる方もいらっしゃるから、お坊さんだらけです。学生さんや会社員の方、大学の先生と多彩です。ここをつくったことでいろんな方の価値感を知りました。
中井 実際に人生相談などをされる方もいらっしゃいますか?
羽田 あります。開店してすぐにいらして、話を聞いてほしいとおっしゃったり。
中井 悩みの解決には、誰かに話したり、お酒を飲んだりすることも大切でしょうか?
羽田 キーワードは孤独です。お酒も人と話しながら飲めば楽しい材料です。
お寺は人の相談にのって差し上げる場所だと、お酒を飲みながら考えていて、人の話を聞くならバーテンダーもいいかなと思ったのが、このバーを始めた理由のひとつです。
アメリカの心理学者が、アメリカ人にはカウンセリングが必要だが、日本人にはスナックやバーがあるからカウンセリングはいらないと言っているのを聞いたことがあります、確かにそうだと思いますね。
野呂 なるほど
羽田 人がアルコール中毒になるのは一人でお酒を飲むからだと思います。一人だと、ひまつぶしのためにお酒を飲むからです。今は暇つぶしの道具が増えたことで、アルコールに走る人が少なくなりました。
野呂 依存症になりやすい人は、実は依存できない人だという見方があります。たとえば、普通ならお酒も飲むしタバコも吸う、スマホもあるし友達もいると、いろいろな依存先がある。
ところが、依存症というのはお酒だけとなってしまう。まんべんなくかかわりをもつことができなくなってしまうんです。
私が関わっている「死にたい」という思いを抱えた方の電話相談では、毎週電話をかけてこられる人がいます。助けを求める先があるのはとてもよいことですが、依存先がかたよってしまうという問題もあります。この場合では、独り立ちをサポートするのが僕たちの役割になりますね。依存先になりすぎてもいけない。
羽田 そういう人にとっては、一人で飲みに行くこと自体、勇気が必要でしょう。最初から一人では飲みに行けない。そういう意味ではバーはハードルが高い、お寺はもっと高い。
野呂 僕は坊主バーもひとつのお寺だと思ったし、大学もまたお寺だと思うんです。社会のいろんなところで仏教にふれ、知ることが大切だと思います。
羽田 いいことですね。
野呂 僕はいま僧侶ですが、実家はお寺ではありません。ですので、最初は仏教を学びながら、少しアウェイ感がありました。一般の人がすぐにお寺に行って、話を聞くというのは難しいですよね。
また、お酒は心を和ませ、心理的なハードルを下げてくれる効果もあると思います。
親鸞聖人のエピソードにも、悩んでいる人にお酒をだしてその人をなぐさめるという記述が残っています。場所はわかりませんが、ある意味そこが、仏教のコミュニティーだったのでしょう。
中井 親鸞聖人もお酒で人々とコミュニケーションを図られた史実が残っているんですね。
野呂 そうですね。もちろん、仏教の歴史のなかには飲んではダメだという人もいましたが、どんな時代もお酒を飲むことの効用も認めようという風潮があったということです。
羽田 仏教も人とのコミュニケーションもいろいろな入口があるほうがいいですからね。
引き続きトークは盛り上がり、第2回目へ続く。
次回、お酒は毒か?薬か?…