前から依頼されていた講演のために札幌に行った。前日からの寒さで夜八時の新千歳空港は氷点下10度という状態だった。雪も降っている。小型旅客機だったので、滑走路から空港ビルまではバスで運ばれた。滑走路におりたとたん吐く息が一メートルほども遠くまで届くのを見て、関西にはない気温の低さを実感する。乗客のバスの発車に向かって深々と一礼する客室乗務員が気の毒になるくらい寒い。遠くへ来た。
しかし、旨い魚や貝はやはり厳寒に限る。寒くても我慢ができるのは、北海道の圧倒的な魚介類のパワーのおかげである。つるつる滑る雪の道をぺたぺたとペンギンみたいに踏みしめながら、居酒屋に駆け込む。冬季地元限定のビールでともかく一杯。ここから札幌の食が始まる。まずは、巨大なボタンエビの生。これには驚いた。痩せて貧弱な甘エビとは違って、皮を剥いたものでも重量感と存在感がある。しかも甘くて歯ごたえさえあって旨い。味噌が新鮮でこれも酒に合う。三匹も平らげたらお腹が膨れそうになった。
関西ではお目にかかれない、いろんな貝類が楽しい。厚岸の生牡蛾が入荷していた。殻付きの、これも巨大な牡蠣である。テーブルに磯の香りをむんむんとまき散らす。夏の生牡蠣のように筋肉質である。レモンなんかかけるのはもったいない。そのままがうまい。そして釧路産のまだらの白子。京都では雲子というが、タチと呼ぶらしい。ねっとりしたコクをポン酢で楽しむ。きんきはすこし贅沢すぎるからほっけの塩焼き。本場のものはやはり新鮮だ。
近年、流通の発達は著しい。傷みやすい魚介類が、新鮮な状態で、時には生きたまま、どこへでも迅速に輸送できる。夜中の高速道路は、そんな生きたままの魚を運ぶトラックが盛んに往来する。厚岸や釧路の魚介も札幌まで来た。わざわざ厚岸や釧路に行かずに済むのはありがたい。しかし、はなはだ勝手なようだが、これが全国どこでも食べられるようになって欲しいとは思わない。やはり、道内で留めて欲しい。日本が狭くなった気がしてしまうのが寂しいからだ。自分勝手ではあるが、私のような関西人には北海道は遠くなければならない。
小さな日本でも気候や地形は多様である。生態系も非常に多様だ。広大な砂漠や畑や森の国に比べたら、文化的には濃密な国土であると言ってもいい。地方ごとに変わらぬ食文化が残る。そんな多様性は得がたい宝である。
多様性を維持するのは非常なエネルギーが要る。自然界のすべてはまじり合って平均化する方向に進むからだ。これに抗するのには、まじり合おうとする動きを押しとどめる意識が必要だ。北海道のものはやはり北海道で食べるしかない。それが一番おいしい。日本中にいろいろなものがあるという喜びを持続させる。
気がつくと、札幌の店でも東京や関西でもなじみの全国ブランドの清酒が居酒屋に置かれている。この辺は、かつては全国ブランドの清酒はほとんどなかった。北海道ならではの食材がごまんとあるのに、有名すぎる酒では、どこかしらけてしまう。やはり地元の酒が欲しい。現地の素材のおいしさを味わうのだから、酒もそれに合うのが地元にあるはずだ。土地の人たちは何を飲むのか。それが欲しい。
リストの隅っこの方に遠慮がちに地酒が書かれている。しかも、全国ブランド酒よりも値段も安い。迷う余地はない。地元の酒に限る。暴れ気味なのがかえって貝や魚やカニにぴったりで豪快な酒である。食はグローバル化したらろくなことがない。世界はもちろん、国内でも地域差があっていい。北海道の食材を無理に関西にまで運ばなくてもいいだろう。しっかりとローカルらしさを守ることが大切だ。酒も然りである。
日本の各地域は、地元の素材を生かす酒を造ってきた。地元の人がそれを厳しく見守ってきた。食の素材が地域で生きていると、酒もまた生きるものだ。厚岸の生牡蠣ならばいくらドライでも白ワインではなかろう。地元漁師の酒しかないはずだ。タチのポン酢にあうワインがあるだろうか。よく探せば地元にいいのがあるはずだ。
一つの地域の産物が消えると、酒に限らずイモ蔓式に様々なものが危うくなる。どこを見ても同じような店が並ぶニッポンにしないためにも、郷土の食は出向いていって食べるしかない。
出典「逓信協会雑誌」(平成21年3月号通巻1174号)