1990年代に多く来日していたイラン人を町で見かけ、イラン人移民に興味を持ち、研究してきました。イラン人が最も多く移住しているのはアメリカ、ロサンゼルスです。今回はそんなアメリカに移住したイラン人の暮らしについてご紹介します。
1980年代末から、日本にもイラン人がやってくるようになりましたが、イランからの移住者が最も多いのはアメリカ・ロサンゼルスです。その土地の人の論理を知ることから始まるのが、文化人類学なのですが、イラン人が国を出る理由はというと、1979年のイラン革命、その後のイラン・イラク戦争(1980~1988年)による、政治への不満、経済的な問題など、大変な状況が続いたためです。
日本にはかつてビザなしで来ることができたので、買い付けやアメリカへの移住などのためにやってきた人が多くいました。その後、日本での滞在そのものを目的にする人も現れます。1992年頃には5万人を超えるイラン人が日本に滞在していました。日本は移民の受け入れに消極的なこともあり、定住した人はごくわずかです。
どこの移民もそうですけれども、移り住んだ先で、自分の居心地の良い場所を作ります。イラン人移民の特徴は、とても個人主義的だということ。家族が同じところに移住しないケースも多いのです。例えば、おじさんはドイツにいるけれど、自分はアメリカに行こうというように。家族のネットワークよりも生活の必要を満たすビジネスによってコミュニティがつくられているといえます。
ロサンゼルスにイラン人がたくさん来はじめたのは、アメリカとイランの外交関係があった1960年代。主に若い人たちが留学生としてやってきました。70年代になると学生の数が激増しました。その後1979年のイラン革命が起こり、留学生がそのまま残っていたり、アメリカで働いているうちに革命がおこって戻らなかったりというような人たちがロサンゼルスでのイラン人コミュニティの基盤を作りました。
イラン革命とイラン・イラク戦争を境に、例えば起業家や前政権で恩恵を受けた人達など、国を出る人が増えました。革命後にあまり奨励されなかった音楽に携わる人たちも来るようになりました。ロサンゼルスは天候がよく、テヘランと少し気候が似ていることも、人気の理由だと現地に住むイラン人は言います。
イラン人は、“イラン人街”というようなまとまりを町に作ることはあまりありません。例外的にUCLAという大学の近くにあるウエストウッド通りには、イラン料理のレストランやペルシア語の書店、ペルシア絨毯店、今はなくなったのですがレコード店もありました。とはいえ単なるビル街にイラン系の店があるだけ。通りにあるイラン系ではない大手チェーンのコーヒー店にはイラン人の男性たちが集まって、バックギャモンという、チェスのようなゲームをやっています。
チャイナタウンのような門があるわけでもないですし、看板がたくさんあったりもしません。イランらしい見た目でアピールしようというような意図はなく、用事がある人にとって需要を満たすお店がだんだん集まって町がつくられている印象です。「パージャンスクエア」という名前がついたのですが、それも2010年代になってからの話です。町の中で彼らは“見えないマイノリティ”なのです。
人口的に言うと、ロサンゼルスに住んでいるイスラム教徒のイラン人より、ユダヤ教徒のイラン人ははるかに少ないのですが、カリフォルニア州に3万人程度ユダヤ系イラン人が住んでいると言われていています。言語や慣習が違うためほかのユダヤ系の人とは一緒にならないで、イランから来た人だけの宗教施設をつくり、ユダヤ教徒向けのイラン料理のレストランもあります。
ユダヤ教徒は、食べ物にも戒律があり、豚肉を食べないなど、イスラム教徒と共通する部分があります。加えて、乳製品と肉を一緒に食べず、それらを食べるときには時間をあけないといけません。肉用のお皿や調理器具と、乳製品のものとは使い分けています。
金曜の日没から土曜日の日没までがユダヤ教では安息日で、その間働くことはありません。そのため、料理を多めに作っておいて、安息日の間食べます。日本でおせち料理を作ってお正月の間に食べるのと似ていますね。「今週末は私の家に来てください」などと親戚や友人同士があちこち移動して一緒にごはんを食べるので、人付き合いが盛んになり、料理を作る機会が増えます。こうしてユダヤ系の人たちの料理は継承されていきます。
例えば、週末の安息日に食べる「ゴンディ」という肉団子があります。「ゴンディ」は豆と鶏肉でできていて、ひき肉で作ったミートボールなんですが、これはイランのユダヤ教徒に特有のもので、一般的なアメリカのユダヤ教徒はマッツァという穀類で作ります。料理は家族から教えてもらいます。こうして家ごとに違うものが受け継がれていきます。移民した先でも工夫を凝らして、地域や家庭の味が次世代へと継承されています。