老舗から新店まで、群雄割拠の京都ラーメン界。全国のラーメン通の間でも、注目の場所だ。「ご当地ラーメン」という言葉だけではくくれない、ひとつの文化ができあがっている。他府県からは、「奇跡の京都」と呼ばれ、偵察に来るほどだそうだ。
なぜ京都では、このようなラーメン文化ができあがったのか?
もちろん、全国に名を馳せる「天下一品」や「新福菜館」、「第一旭」といった老舗の功績によるところも大きいだろうし、京都料理をはじめとした食文化が発展していることも要因の一つだろう。
そんな京都ラーメン界で、ここ数年ある現象が起こっている。ラーメン屋の店内や暖簾、メニューなど、かなりの確率で「麺屋 棣鄂(ていがく)」という文字を目にするようになった。麺屋 棣鄂って何者?
京都は全国的に見ても屈指のラーメン激戦区。それも、全国的に名を轟かせる老舗から、毎年のようにオープンする新店まで、バラエティに富んだ顔ぶれだ。現在、ラーメン店は500軒あるとされている。
「奇跡の京都って言われているほどです。保守もあるし、ニューウェーブもある稀有な地域。全国からラーメン店関係者がしょっちゅう偵察に来ます」。そう話してくれたのは、京都のラーメン界では知る人ぞ知る存在の「麺屋 棣鄂」の知見社長。ラーメンに欠かせない「麺」を専門につくり続けて87年、京都の名店の麺を数多く手がける「奇跡の京都」に欠かせない立役者の一人だ。
なぜ、京都は奇跡と呼ばれているのか?
知見社長はこう解説する。「ご当地ラーメンってあるでしょ。札幌、喜多方、博多とかね。ご当地ラーメンが根付いているところって、ラーメンってこういうものだっていうのが、すごく根付いている。ある意味保守的で、こういう場所には、たとえばつけ麺のようなニューウェーブが根付かないんです。京都にもご当地ラーメンはあるのに、つけ麺をはじめ実に多彩に共存している。これは奇跡です。」
京都ラーメン界で、棣鄂は稀有な存在感を放っている。京都で初めて中華麺を打ったパイオニアでもある一方、ラーメン麺通として知られるシャンプーハットのてつじさんは友人で、最近では新商品「九条ネギ入り麺」を一緒に開発するなど、さまざまな麺の可能性を模索し続けるチャレンジャーでもある。
京都のラーメン屋を訪れると、棣鄂の文字が入った木箱やポスター、メニューなどがあるのに気づくだろう。「最近、木箱やポスターを売ってくれって、店主から言われることもあるんです」と知見社長。ラーメン通の間では棣鄂の名前を出すと安心してもらえるのだそうで、店に棣鄂の名前が入ったアイテムを置きたいという店主の要請も増えてきている。それほど棣鄂の名前は浸透してきている。
しかし、これだけ名前が知られてきても、棣鄂の基本理念は開業当初から変わらず“黒子”でいること。「指揮者は、ラーメン店主です。僕らがどやこうや言い出したら、アンサンブルが狂ってしまう。あくまで、影になるプロです」。
いまや押しも押されもせぬ存在の棣鄂。その起こりは、昭和6年にまで遡る。代々知見家が経営を行い、現社長は3代目にあたる。「僕は長男ですが、最初はこんな先細りの商売は継ぐなって、親父から言われていたんです」。先代の時代は、大量生産で安く売ることを求められていた時代。どんどん、安売り合戦が繰り広げられるようになっていた。
そんな折、知見社長が25歳の頃、先代が倒れてしまう。
「親父に呼ばれたんですよ。てっきり、もう会社をたたむと言われるのかと思ったら、戻ってきてくれって言われました。正直拍子抜けしましたね、継ぐなと言ったり継げといったり…。でも先代は『従業員たちを路頭に迷わすわけにはいかない』と。僕もその言葉に動かされたんです。」
現在、社長になって17年。契約店の数は50軒から400軒へ。そして売り上げは、7000万からもうすぐ10倍の7億にも届かんとする勢いだ。まさにV字回復で、その経営手腕が注目され、最近では経営に関する取材も増えているという。社長として経営、営業を担当する兄と製造部門の責任者である弟。棣鄂は、知見兄弟が中心となり、今の地位を築いてきた。
棣鄂の強みは、スープとの相性を追求した多彩な「オーダーメイド麺」だ。この発想が生まれたのは、知見社長が棣鄂の仕事を初めて間もない時だった。「家業を継いだ当初は、よく麺を配達していたので、ラーメン店主と話す機会が多かったんです。店主は一様に『俺のスープはうまい』っていうんですけど、麺はよくわからないって。俺のスープがあるなら、俺の麺もあっていいんじゃないかと。当時、自家製麺が出現し始めていましたが、自家製麺って今でも難しいんですよ。最初は、自家製麺の代行をしてあげようと思ったのがきっかけです」。そうして当初2種類しかなかった麺は、今では200種類を超える。オーダーメイド麺を武器に、棣鄂はリスタートした。
オーダーメイド麺に、ものすごく根拠のない自信があったという知見社長。オーダーメイド麺を手がける競合他社がなかったのも理由の一つだ。それでも、最初の1年は開店休業状態だったという。「はじめた時は『オーダー麺って意味がわからへん』って言われていましたね」。
当時の苦労を表すエピソードがある。「今でも覚えているのが、北海道のラーメン屋さんが京都にオープンすることになったんです。その時、麺を見せられてね。北海道で使っている麺と同じ麺を作ってくれって言われました。その時、うちにはまだ2種類しか麺がなくて。他の麺の作り方がわからなかったんです。材料の小麦粉の仕入れ先である日清製粉の担当者に相談したり、製造部門の担当者たちと日夜試行錯誤を繰り返しましたね」。
「まだ80%くらいの出来かな?」と思いながらも完成品を差し出すと「あ、うまい」と見事合格点が出たのだとか。「言われたらやります。作れないのは悔しいです。職人魂ですかね」と知見社長は言う。
ブレイクの兆しが見え始めたのは、想像もしていなかった他業界からのオファーがきっかけだった。「京都のイタリアンレストランが、最初に食いついてきてくれたんですよ」。
イタリアンの麺には、色々なカタチがある。プレインか練りこみ麺か、乾麺か生パスタかという違いもある。「当時は、生パスタが流行り出したくらいの時。生パスタでリングイネっていう楕円形の麺を作ってくれないかと言われて。この楕円形の麺という発想は、ラーメン業界にはなかったんですよ。四角か丸でした」
そうこうしているうちに、2005年くらいに全国的なつけ麺ブームが訪れる。棣鄂の麺作りにも大きな影響を与えたのが、「つけ麺」で京都のラーメンシーンの進歩を牽引した「麺屋しゃかりき」の店主との出会いだ。
「店主が『近畿中の製麺所を探しに行ったけど、関西でつけ麺の麺を打っている製麺所がどこもない』っていうんです」。当時、京都でつけ麺をやろうと思ったら、東京から麺を送ってもらうっていうのがセオリーだったそう。「京都で商売しているんだから、京都の製麺所と付き合いたい」とていう店主の気持ちに応え、つけ麺の開発を始めることになった。「ところが僕、その時つけ麺を食べたことがなかったんですよ」。急いで新幹線に飛び乗り東京へ。つけ麺を食べまくり、多い時では1日10杯食べることもあったそうだ。
納得がいくつけ麺が完成するまでに約1年。いわゆる“関西初のつけ麺”が誕生したのは、2005年のことだった。この時、しゃかりきの醤油つけ麺に使われていたのは、イタリアンの経験が生かされた楕円形の麺。「今でも珍しい麺です。10年以上たった今でも、色褪せない、斬新な麺だと自負しています」
知見社長に、これからの夢を聞いてみた。
「まだ、僕の頭の中にあるだけですが、麺屋を出してみたい。麺が主役で、今日は焼きそばで食べてみようとか、麺ありきで、スープは醤油、味噌、塩が選べますよっていうね」。
20年近く培ってきたノウハウの賜物で、大概の麺のトレンドは網羅してしまった。「どうぞうちの冷蔵庫見に来てください。絶対あなたの店に合うラーメンの麺がありますからって感じです」という言葉に自信がみなぎる。
しかしこれからも、ストイックに麺のブラッシュアップは続けていきたいという。現在、47都道府県中33都道府県との取引があるというが、全国制覇をするのが目下の目標だそうだ。「棣鄂って京都の会社なの?って言われるほど、全国に名を轟かせたいですね」。
棣鄂の快進撃は、まだまだ続きそうだ。
続きは第2回へ。麺のプロであり、全国のラーメン事情に精通する知見社長に、ラーメンのあるある、トリビアなどを聞いた。「あなたの知らない麺の世界とは?」