「ゆっくり飲める場所がだんだんなくなってきましたね」
清酒が好きな中年おじさんの声が聞こえる。
「焼酎と若い女性がやってくると、私は逃げたくなる」
おしゃれなお店はもちろん、裏通りの居酒屋にまで、女性の進出は目覚ましい。しかも、恐ろしく元気だ。折からの焼酎ブームで、清酒のスペースが浸食されてゆく。清酒好きのおじさんには、焼酎と元気な女性が重なって見えるらしい。
一升瓶のラベルは清酒と焼酎でわずかにトーンが違うようだ。焼酎が優勢になってきた店では、並んでいる瓶のラベルのテンションが高くなる。清酒のラベルのどこか憂いのようなものが、焼酎にはあまり感じられない。
「孤独がいいのです、年寄りは。独酌こそが最高なのです」
孤高を楽しむおじさんの屈折した気分など、数人の黄色い声で無惨に消し飛んでしまう。
しかし、日本にはまだおじさんがおいしく酒を飲める場所が残っている。
蕎麦屋である。
飲み屋というよりも食べる店のイメージがあるから、飲む場所としては穴場だ。昼時以外はすいているのもうれしい。ここでは、まだ少し明るいうちに蕎麦と酒を楽しむ人が少なくない。蕎麦屋では昼間でも不思議に自然に酒が飲める。
居酒屋のチェーン店などができる前の時代は、蕎麦屋で酒を飲むのは当たり前であり、特別な場所でもなかった。
蕎麦には清酒がぴったりだ。新潟市内のある蕎麦屋などは、壁に大書された「蕎麦定食」を注文するとざる蕎麦と天ぷらと二合徳利に入った冷酒が出てきた。天ぷら蕎麦とご飯が出るのかと思っていたので多少は面食らったが、ちょうど新酒の出来上がる時期でもあったので、思いがけない至福を味わった。これぞ、蕎麦屋である。
天ぷらのダシは蕎麦によくあう。つゆのうま味にてんぷら油のおいしさ自身が酒の肴である。薬味の刺激も酒に合う。もちろん蕎麦そのものも酒の肴にして申し分ない。そばつゆを肴にして酒を飲むようなものだ。だから、蕎麦と天ぷらを食べながらどのタイミングでも酒が飲める。
蕎麦に限らずもともと清酒は何にでも合う。清酒は口の中の肴を洗い流してくれる。料理のじゃまをしない。料理と張り合うワインとは役割が違う。だから、フランス料理でもイタリア料理でも清酒はうまい。中華料理にもあう。
けれども蕎麦ほど特別にうまい肴はない。蕎麦は余計な味がしないから落ち着いて飲める。気分もさえざえとしながら、安らぐ。蕎麦で飲む酒はじっくりと体に染み込み、胃の腑に落ち着く。爽快である。
蕎麦といえば駅の蕎麦を思い出す人が多いに違いない。店舗の数としては膨大だ。おそらく日本のファーストフード店としては駅の蕎麦屋が最も多いだろう。蕎麦のダシの香りは、日本の駅のどこにでも流れている。この匂いがいつの世にも蕎麦を不動の地位に保っている。ファーストフードとしての蕎麦屋にかくれるように江戸時代からの飲み屋としての蕎麦屋があることはおもしろい。
老舗の蕎麦屋の店内の照明はどこも明るい。酒を飲む人が多い店では、店もこざっぱりしている。蕎麦職人も店員も落ち着いた年齢の人が多く、私の知る限り概して口数は多くない。お客に酔っぱらいは少ない。口角泡をとばして議論するような店でもない。男女を問わず皆が静かだ。
一見すると飲み屋ではない。むしろ食事をする人も多い。温かい蕎麦をずるずると食べている人と、蕎麦をあてに酒を飲む人が同居する不思議な空間である。お互い干渉はしない。孤独が好きならば黙って自分の世界に浸って酒が飲める。これが蕎麦屋のいいところだ。
蕎麦屋で酒を飲むときのマナーは、あまり長居をしないことだ。じっくりと自分に浸った後は、よい加減で店を出る。へべれけになってはいけない。節度である。節度が、蕎麦屋で飲む酒の神髄なのだ。
「それでは肩が凝って楽しめない」
「わいわい喋らないと意味がない」
世代によって、いろいろな飲み方があるようだ。楽しむためや安らぐため。純粋に味わうため。蕎麦屋の酒は中高年になったときのために残しておけばいい。
その意味では、蕎麦屋の客に最も近いのは珈琲店の客ではないか。本当にコーヒーが好きで、一人でやってきて、あまり喋らずに、いつの間にか帰ってしまう粋なおじさん。蕎麦屋の客筋と通じるものがある。
節度をわきまえた、粋な酒。蕎麦屋は修行の場でもある。
出典「逓信協会雑誌」(平成19年8月号通巻1155号)