諸葛孔明は、三国志物語の中心人物の一人として知られる。特に日本人には愛好されて来た。これは、孔明の死をもって実質的に物語を終える、吉川英治の歴史小説『三国志』の影響が大きい。吉川英治の描き方によって、孔明の生涯の悲劇性が増幅され、日本人からの支持を獲得したのであろう。
さて、諸葛孔明あるいは孔明と称される人物だが、諸葛が姓(中国でも漢族の二字姓「複姓」は珍しい)、孔明は字(あざな)である。字は、簡単に言えば「呼び名」のことで、実名を呼ぶのを避ける(実名を軽々しく呼ぶことは無礼とされていた)ため用いられた。そして、名は「亮」といった。
したがって、歴史的人物として正しくは「諸葛亮」と称すべきで、そう称されることも多い。ちなみに「諸葛孔明」という呼び方も多いが、これに準ずるならば、劉備は「劉玄徳」、曹操は「曹孟徳」となる。どちらも、あまり馴染みのない呼び方であろう。
その諸葛孔明と「食」にかかわる挿話として、まっさきに思い出されるのは「饅頭」の起源である。饅頭は諸葛孔明が考案した説話をよく耳にするが、ここではいくつかの説を紹介し、その信憑性を探っていきたい。
ちなみに、ここでいう「饅頭」は「まんじゅう」ではなく「マントウ」と呼び、日本でいうと肉饅(にくまん)が近い。現代中国語では「包子(bāozi)」と称するのが一般的であり、「饅頭」とはほとんど言わない。
ということで、まずは最もポピュラーで有力とされている饅頭誕生説を紹介しよう。
孔明が南方征伐に出陣し、反乱を起こした蛮族の王、孟獲を帰服させた帰途のことである。孔明に心服した孟獲は、国境にあたる瀘水(ろすい:中国の地名)まで孔明を見送る。
孔明軍の先鋒が瀘水に差しかかると、にわかに黒雲濃霧が立ちこめ、川の水面から起こった狂風が砂礫を巻き上げ、兵士に吹き付ける。到底渡れたものではなく、孔明は孟獲を召して理由を尋ねる。
孟獲が言うに、これは、この川に住む猖神(荒れ狂う神)の仕業であり、鎮めるためには祭礼が必要とのこと。その内容は、49個の人の首および黒牛・白羊を生贄として捧げるのだと言う。
南方平定に際して、多くの敵を殺し、味方を失った孔明は、これ以上の犠牲を嫌った。そこで小麦を練って皮を作り、牛と羊の肉餡をこれでくるみ、人頭に見立てたものを生贄として祭礼を行ったところ、川の狂乱はやみ、孔明軍は帰還できた。
この挿話は、歴史小説『三国志演義』で語られる(通行本では第91回)。そして、きっと『三国志演義』の創作ではない、はずである。何故なら『三国志演義』の中で、その出典元の記載があるからだ。
『三国志演義』の諸版本のうち、現在のところ最古のものとされる嘉靖壬午序本(「嘉靖壬午(西暦1522年)」のいう年号の序文が付いているため、こう称する)にて、孔明がこの肉饅を「饅頭」と名付けたと記されており、注釈に「この話は『事物紀原(中国の書物:じぶつきげん)』を出典とする」とある。
したがって、ネット上の情報を粗く検索する限りでは、『演義』が語るこの挿話の出典を『事物紀原』としているものが多い。
『事物紀原』は、南宋(中国の王朝:12世紀前半~13世紀後半)代の図書目録によると、北宋(中国の王朝:10世紀中期~12世紀前半)の元豊年間(1078年~1085年)に、高承なる人物によって著されたとされる。
ちなみに、この図書目録が著録する巻数および条数は、現在伝えられている『事物紀原』よりもかなり少ない。これはおそらく、現行本は後人によって増補されたことを示している。しかしながら増補した人物および時期については未詳である。
今回は、現存している『事物紀原』のうち、中華書局1989年排印本を用いて、諸葛孔明と饅頭に関する記載について確認してみた。すると、『演義』の語る挿話とは大きく異なる、以下のような内容が確認できるのである。
稗官小説に云う。諸葛武侯(孔明のこと)が孟獲を征伐した際、こう進言する者があった。
「蛮地には邪術が多いゆえ、神に祈り、神兵の助力を受けるべきです。蛮人の習俗では、人を殺し、その首を祭ります。すると、神がこの生贄を享け、兵を出してくれるのです」。
武侯(孔明)はこの進言には従わず、羊と豚の肉を混ぜ、これを、小麦を練って作った皮で包み、これを人頭に似せて供物とした。果たして神はこの供物を享け、兵を出してくれた。後人はこれこそ饅頭の起源であるとする。(『事物紀原』巻9/酒醴飲食部第46)
『事物紀原』によると、孔明の南方征伐の時の挿話とされる点、人頭の代わりに饅頭を用いる点、など、『演義』との共通点はある。しかしながら内容は大きく異なっており、『演義』で語られる「川の神を鎮めるために作られた」という饅頭起源説話は、『事物紀原』そのままではない。
現在のところ、『演義』における饅頭起源説話の出典は不明とした方がよさそうである(無論、『演義』の創作である可能性も残る)。
さらに、「稗官小説に云う」とされているように、『事物紀原』もまた、稗官小説(撰者や書名の判らない、雑多な記録)を引用している。そして、この「稗官小説」についても、成立年代なども一切判らないのである。
先述したように、『事物紀原』そのものも安易に北宋代の成立とするわけにもゆかないことを考えると、実のところ、『事物紀原』の収載する饅頭起源説話も15世紀以前には遡れず、『演義』嘉靖壬午序本より、せいぜい50年ほど先行するだけである。
そのうえ、正史『三国志』など、孔明の事績を知るための基礎史料には饅頭に関する言及が一切ない。こうなると、孔明と饅頭が、いつ結びついたかは判然としない。
また、孔明と饅頭を結びつける起源説話は、他に中国の随筆『七修類稿』巻43などにも異聞が記録されているが、著者の朗瑛(ろうえい。1487-1566)が15世紀末の生まれであることから、やはり成立年代は、『事物紀原』、『演義』嘉靖壬午序本と大差ない。
こうなると、孔明と饅頭との結びつきは案外新しいかも知れないのである。
饅頭については、もっと古い記録が確認できる。
隋末期(7世紀初頭)に編纂された『北堂書鈔(ほくどうしょしょう)』という書物がある。この「144巻/酒食部/餅篇/第13」に、三国時代末期~西晋(中国の王朝:せいしん)の文人「束晳(そくせき)」の「餅賦(べいふ)」というタイトルの文学作品が引用されており、この中に「饅頭(曼頭)」という語がみられるのだ。
詳細な記載はないが、これによると「饅頭(曼頭)」は食べ物であり、祭礼の供物に用いられることも疑いない。しかし、ここでは孔明との関係は一切言及されていない。
実は、『事物紀原』にも、この「餅賦」に関しての言及がある。そこでは、束晳が、孔明より後の時代の人であることから、「饅頭の起源は武侯(孔明)にあるのではないか」と結論づけている。すべての記録を無邪気に信ずればそういうことなのである。
しかし、その記録が収載されている書物の成立年代から考えると、雲行きは怪しい。「稗官小説」も束晳「餅賦」も原本は発見されていないからだ。さらに、「稗官小説」を収載する『事物紀原』の成立年代は、せいぜい15世紀までしか遡れないが、『北堂書鈔』の成書は7世紀初頭、実に800年以上、『北堂書鈔』が先行するのである。
以上、文献学的手続を踏む限り、孔明と饅頭を結びつける起源説話は、「信憑性にかなり大きな疑問符がつく」という結論になってしまった。
とはいえ、現在に至るまで、孔明と饅頭が強く結びつけられているのも疑いない事実である。それは、『三国志演義』が後世に及ぼした影響の大きさが挙げられるだろう。
また、孔明という人物の生涯と結びついていることも指摘できる。
孔明は「旅する人」であった。それゆえ、(孔明の)故郷の人々から、遠く離れた南方の地で“饅頭を生み出した人”という伝説で語られることになったのではないかとも推測される。
孔明は、饅頭起源説話以外にも、各地に数多くの伝説を残している。機会があれば、そんな「旅する孔明」と結びついた食物の話を、改めてしてみたい。