「食べないものを、 どうして作るの?なぜ買うの?」
ふだんの食卓でのやりとりが、「いのち」を支える食の問題につながっている?
江戸時代の都市は、徹底的なリサイクル社会だったようです。紙屑や古着はもちろん髪の毛ですら再利用されていました。「食」や「農」に関しても、生ゴミはおろか人間の排泄物までもが有機肥料として近郊の田畑で利用され、そこで作られた農作物が食料として人々の暮らしを支えていた。まさに「食の循環」が理想的に機能していたエコ社会だったといえるのです。
しかし、現代の日本は「捨てる」社会。それは食品に関しても同様です。「食べられなくて捨てるしかない果物の種や皮、魚の骨などの不可食部分」に加えて、「食べ残しや消費期限を過ぎて食べられなくなったもの」、「消費期限までに販売されなかったものや流通段階で規格に合わなかったもの(規格外野菜等)」などの食品廃棄物が大量に発生しています。農林水産省の推計によれば、日本における食品廃棄物の発生量は年間1788トンにもなります(平成21年)。
このうち、「まだ食べられるのに廃棄される食品」のことを「食品ロス」といいますが、その発生量は年間500~800万トンにのぼります。私たちが安心・安全な食べ物を美味しく食べることを追い求めたことにより、「食品ロス」が大量に発生しています。私たちは「食べてもいない食料」に食費を費やし、そのゴミ処理代金を支払っているのです。
「食品ロス」は「まだ食べられる状態にあるもの」を捨てるという意味で、極めて人為的かつ深刻な問題だといえます。利用されない(食べない)ものを生産したり流通させたりすることに多くの資源やエネルギーを使っているという非効率性。世界中で飢餓に苦しむ人々が少なくない状況において、食べ物を捨てるという非倫理性。食べないわけだから、そもそも生産しなければゴミも発生しないし、それを処分する手間もかからないはずなのに、実際には生ゴミ処理に膨大な資源・エネルギーを使っているという反環境性。これら諸問題を見過ごすわけにはいきません。
私たちは「食品ロス」を可能な限り削減するための努力をすべきですが、その実現には時間がかかることも事実です。残念ながら当分の間は一定量の発生は覚悟せねばなりません。また、「どうしても発生せざるを得ない食品廃棄物」も存在します。これらを、当面の対応としてどう処理すればよいでしょうか?
現在、こうした問題に対し、廃棄物を循環的に利用する取り組みが活発化してきています。例えば、食品廃棄物についても堆肥や飼料(エコフィード)への再使用・再生利用が各地で実施されており、そのための技術開発が進んでいます。また、家畜排泄物を堆肥に利用することなども行われています。
こうした取り組みによって「食の循環」がうまく機能すれば、私たちの生活も「ご先祖様に恥ずかしくないもの」になるかもしれません。そして、いずれは「食品廃棄物肥料で作ったコメは、化学肥料を使ったコメに比べて、やっぱり美味しいなぁ」という時代がやってくるかもしれません。
現在、「食」や「農」を取り巻く状況は矛盾に満ちたものになっています。
地球規模での人口増加や異常気象による食糧危機への懸念が高まる中で、ありあまる食べ物を消費する国と飢えに苦しむ国が並存しています。「飢餓と飽食」という矛盾です。わが国においては、食料自給率が40%を切る中で耕作放棄地が増大し、農業の担い手や後継者が不足するという一見すると矛盾に見える状況が生じています。私たちは海外から大量の食料を輸入する一方で大量に食料を廃棄するという、これまた矛盾した行動をとっています。
「食」とは、すべての「いのち」を支え育むもの。その「食」と切り離すことのできない「農業」。「食」と「農」は私たちにとって身近な問題であるとともに、世界規模でも重要 な問題です。私たちの食生活や「食」に対する態度、「農」に関する意識の持ち方が、世界規模での「食」と「農」の問題の解決につながるかもしれないのです。
例えば、ご飯の食べ残しといった生活の中のちょっとしたことに目を向け、そのことを家庭で話題にするだけでもいいのです。ほんの些細なことが、「食」と「農」を考えることにつながり、それがまた、私たちの未来の暮らしに目を向けることにもなるのかもしれません。
農学部では、地球規模の課題に取り組む一方で、農村や自治体と協働するなど、地域に根ざした活動にも力を入れていきます。ローカル、グローバル双方の視点から、どうすれば豊かな「農」を育み、安全・安心な「食」を実現できるのかを考え、私たちの未来に挑みます。
※リクルート「進学カプセル」(2013年7月)掲載内容を転用しています。