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「懐かしいおいしさ」は本当においしい?
  • TRIVIA
  • 2018.07.24

「懐かしいおいしさ」は本当においしい?

思い出の味の記憶

旅行中に食べたご当地の料理や子供の頃のお菓子など、懐かしい味は多い。
「当時と同じ味をもう一度食べてみたい」
「あれは、おいしかった」
バラ色の思い出かどうかはともかく、そんな郷愁は誰にでもある。どんな味かと聞いても説明はなかなか難しい。食べたらはっきりわかるとしか答えようがない。言葉にならない。それでも懐かしい味はほんとうに存在する。

食べ物の味わいの記憶の大きな部分を占めるのは、匂いの記憶と考えられている。この場合の匂いは正確には風味と呼ぶ。口の中に入った食物の香りが鼻に抜けるときに感じる匂いである。味覚ではなくて嗅覚が関与する。面白いことに、鼻の穴の先端側は外から来る異物の匂いに敏感で、口とつながっている側の鼻腔は食べ物の風味の解析能力に優れているようだ。

懐かしい味というのは匂いの記憶らしい。鰻の蒲焼きはおいしいけれど、鰻を秘伝のタレと炭火で焼いた匂いがなければならない。京料理はダシのうま味が大切だが、カツオや昆布の香りが必須である。ハマグリの吸い物の風味も味を引き立てる柚の香りも、大根おろしも、微妙な味わいには必ず匂いが絡む。

味だと信じていたものも匂いで説明できる。コクが自慢の京都の老舗のスッポン鍋もやはりおいしさの実体はスッポン特有の風味、つまり匂いである。浅草で食べた天丼のおいしさも、エビの風味とタレの風味とごま油の微かに酸化した匂いが記憶される。握り寿司でさえ、魚の風味や酢やワサビや醤油の風味がなければ全くおいしくない。

鼻をつまむと味が変わる

鼻をつまむと口から鼻へ空気が抜けないから風味が感じられない。すると食べ物の味は一変する。リンゴジュースを飲んでもグレープフルーツジュースを飲んでも、似たような単調な甘い味わいに感じられる。匂いがないとはっきりした区別が付きにくいのだ。

ある香料会社の研究者によると、お菓子の香りの代表であるバニラや、オレンジなどの匂いを卵焼きやスープにつけてみた。ミスマッチな食べ物である。それでも鼻に栓をして食べるとさほど違和感は感じられない。風味を感じないからだ。

ところが、鼻栓をはずすと事態は変わる。味と香りがめちゃくちゃであることが感じられる。この瞬間に被験者の多くは思わず吐き出してしまう。

昔、真夏にかぶりついた真っ赤なスイカも、取れたてのトマトも、トウモロコシも、香りがなければ懐かしくない。マニアックな懐かし系では、おやつ代わりの魚肉ソーセージ、ぽりぽり囓ったチキンラーメン、かりんとう、揚げたてのコロッケも、縁日の焼きソバも、鯨のベーコンも、おいしさの記憶はやっぱり風味すなわち匂いなのである。

匂いを感じる鼻の仕組みは大がかり

鼻には様々な匂いをかぎ分ける匂いの受容体がある。鼻の粘膜表面にびっしり並んでいて、マウスでは1000種類もある。どんな複雑な匂いの違いにも対応できる数である。

人間でも数百種類はある。食べ物の風味を味わうには十分な数だ。

それに比べて、甘味を感じる味の受容体はたった1種類しかない。うま味を感じる受容体もわずか1種類しかない。これでうま味と甘味の全部をカバーしなければならない。こんなシンプルな味受容体で、食品を細かく味わい分けることは難しい。微妙な違いを見分けるには、匂いの助けがどうしても必要なのである。

懐かしい味の記憶の正体が匂いの記憶であることを支持するもう一つの証拠がある。味の記憶は実はいい加減。一方、匂いの記憶は確かで変質しない。味は舌から延髄、大脳各部位といくつも神経を乗り換えて記憶される。絶対的な味というよりも相対的な記憶である。一方、匂いの信号は鼻から直接に脳に入って記憶されるので変化は少ない。長い年月がたっても匂いは生々しく記憶が残る。

懐かしい匂いも危険から身を守るための情報

もともと、匂いの記憶は危険から身を守るためにある。環境に異変がないか、食べ物に毒物がないか、そんなことを見張るのが匂いの役目である。ライオンの匂いやガス漏れの匂いの記憶が変化しては生命に関わる。だから匂いの記憶は確実で長持ちする。懐かしい味は匂いで記憶されている。風味こそが懐かしい味の本体なのである。

食育も匂いから

最近、子供を対象とした食育が盛んである。子どもたちの将来の健康につながる嗜好を幼いうちから育てなければならない。私は、日本の伝統的な味わいであるダシのおいしさを子供に理解させることが大切だと考えている。賢明な読者はもう私の言いたいことを推察しているだろう。食べ物のおいしさの記憶が匂いだとすると、食の教育は風味や匂いのような嗅覚を大切にしなければならないのだ。

嗜好のもとになるのは食体験だ。それは、おいしさの記憶のファイルでもある。ダシのおいしさとして記憶に残るのは、子供の頃から親しんだだしの匂いの記憶である。食育にも匂いは重要である。 

出典「逓信協会雑誌」(平成18年6月号通巻1144号)

伏木 亨

伏木 亨

ふしき とおる

龍谷大学農学部教授、農学博士、龍谷大学農学研究科長

専門は農芸化学・栄養化学。「味覚と嗜好のサイエンス [京大人気講義シリーズ] 」ほか著書多数。日本香辛料研究会会長、日本料理アカデミー理事。平成24年日本農芸化学会賞受賞。平成25年飯島食品科学賞受賞。平成26年紫綬褒章受賞。