おいしさは主に味覚と嗅覚で感じると言われる。しかし、実際は、嗅覚がおいしさのほとんどを決める。食べ物を口の中に入れると口から鼻に空気が移動する。この移動する気体に含まれる食べ物の匂いは、風味と呼ばれる嗅覚である。口に入れてから匂いを感じるので、味覚と間違えやすいが、この風味がおいしさの主役である。
味覚は、舌の表面にある少数の種類のセンサーで識別されている。甘味やうま味、酸味、塩味のセンサーはほぼ1種類ずつである。苦味だけは20種類ほどのセンサーがあるが、いずれにせよ、こんな少ない種類のセンサーで膨大な種類の食べ物を舌が詳細に識別することは難しい。
一方、匂いのセンサーは人間で400種類、ネズミではなんと1000種類にも及ぶ。味覚に比べて嗅覚の解像度は格段に高い。ひねた日本酒の味は、鼻をつまむと全く感じなくなる。これも匂いなのである。事故の後遺症で一時的に嗅覚を無くした人がいるが、オレンジジュースとリンゴジュースの区別はおろか、食べ物の味がほとんど識別できなかったという。
しかも、嗅覚の記憶は長年にわたり変質することなく記憶される。プルーストの小説「失われた時を求めて』のなかに、マドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間に、幼少の頃に家族と避暑に行った島の情景が、その時に食べたマドレーヌの風味とともにありありと浮かんだ、というくだりがある。風味の記憶は何十年たっても正確である。
匂いは、環境の変化など危険を察知するために使われる信号といえる。草原の小動物はライオンの匂いを間違えたら生きてゆけない。危険から身を守るための嗅覚が、今では、食べ物の味わいの記憶にも使われている。
昔懐かしい味とか、どこそこのラーメンは美味しいとか、それらはみな、嗅覚で記憶される。味の記憶は曖昧である。
では、味覚は何をしているのか。甘味や酸味など、基本的な味のバランスをチェックしている。これが大きく崩れるとおいしくない。嗅覚だけでは人間は満足できない。目の前においしそうな匂いのする料理が運ばれてきたとして、匂いを嗅いだだけで持ち去られたら不満であろう。味覚は、確かに食べたという満足に関係しているようである。おいしさもなかなか複雑なのである。
出典「互助組合報」(2014.6.10号)