欧米では料理のコースの最後にしっかりしたデザートが出てくる。ケーキやチーズや果物やら。なにしろ量が多い。これがないと、彼らは非常に物足りない気分になるそうだ。
むしろ、デザートのために料理があるのでは、とさえ思わせるほどデザートには力が入っている。西洋の料理は一般的には和食のように砂糖やみりんなどの甘味を大量には使わない。糖質を控えるから、からだは、どこか少し不満な状態にある。タンパク質や脂質は多いけれど、血糖を上げる糖分が足りない。そうしておいて最後のデザートは糖が豊富なのだ。甘い糖分が血糖値を上げ、満腹感・満足感を高め、幸せな気分に浸ることができるという仕組みである。生理学的に見ても見事な演出と言わねばならない。
お腹が満腹のところに、きらびやかなデザートのワゴンがやって来ると、お腹のスペースを残しておくべきだったと後悔する。それでも食べられてしまうから不思議である。別腹につぃてはいろいろな説があるが、私は、油と甘味の食べ過ぎを脳が許しているからだと考えている。エネルギー備蓄のためだ。そういうわけで、お腹の膨れぐあいなどおかまいなしに、濃厚で大量のデザートがやってくる。食後の腹の苦しさも満足感の一部である。
甘さは糖分であり、血液中の糖分は脳の唯一の栄養素として重要である。脳が生きるために必要な糖分を獲得した安堵感が幸せな気分をもたらす。
一般に料理にはできるだけ糖分を控えるが、日本の煮物にはかなり甘味を使う。日本の煮物は昔からあまり植物油脂やバターなどを多く使わなかった。明治以前の日本人は油脂をほとんど摂取しなかった民族である。酪農製品や畜産物を食べる習慣がなかった。
油脂の不足による不満足を補うためにうま味と甘味を多用した。甘味は和風の煮物には必須であり甘味がないと満足が足りない。料理の中に甘味があるから、和食では食後に甘いデザートが出ても、フランス料理のような血糖急上昇の演出となりにくい。日本で、デザート文化が欧米ほどは盛んではない理由であろう。
和食の場では、さすがに料理の最後に巨大なケーキが出てくることはない。料亭懐石料理の原型である茶懐石では、料理はもともと濃い茶をおいしく飲むための前奏曲のようなものであった。料理には酒も出された。
濃い茶は良質なお茶を引いた粉を練ったもので、お茶本来のうま味や甘味があるが、刺激もかなり強い。そこで、茶懐石でも空腹の胃にはまずご飯と味噌汁。
さらに向付け、椀物と料理が続いて出てきたのである。酒も一緒に出された。それから、お茶菓子。これがデザートのようなものであろう。濃い茶が出されるのは通常それからいったん席を立って戻ってからである。濃い茶が茶会の最後を締めくくるイベントのはじまりといえる。西洋のデザートに向けた演出とは少し違う。
料亭の懐石料理ではご飯や味噌汁が料理の最後に出される。料理と酒の後に漬け物でご飯を食べるのはおいしい。最後のご飯や漬け物は、食中の酒によって抑制された血糖レベルを回復する意味で、体にとって心地よい食べ方である。
酒を飲めない人にとっては、懐石料理には初めからご飯が欲しいことであろう。酒の肴としての料理が並ぶが、本当はご飯とともに食べるようにできている。酒宴中にご飯をもりもり食べるのは、場をしらけさせるのが心配で、我慢している人は多かろう。酒を飲まない人には生理的な欲求と料理の順序がしっくりこないので、どこか歯がゆい思いがするに違いない。
和食の料亭でも料理の最後に果物などのデザートが出てくる。これは、不要なのではないかと私はいつも思う。
最後のご飯と漬け物や味噌汁で糖分が摂取できる。生理的にも体が満足している。
酒量にもよるが、酩酊してしまった脳にとっては、どうも食後のデザートや果物は落ち着き場所が無くてとまどうことが多い。甘いメロンも、食べ残すことが多いのももったいないのだが、身体がいらないというからこればかりはしかたがない。
たいていの酒宴の最後には、果物が手つかずでたくさん残っている。最初に出れば残す人はいないだろう。からだの生理的な要求に合わないとしか言いようがない。
出典「逓信協会雑誌」(2007.12月号)