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店ものがたり「三宮一貫楼」編 〜第1章〜

安藤 孝志

三宮一貫楼

店ものがたり「三宮一貫楼」編 〜第1章〜

安藤 孝志

三宮一貫楼

〜序章〜

店の数だけ人の人生があり、そして、ものがたりがある。

老舗となれば、それはなおの事。「三宮一貫楼」。三宮で「豚まん」といえば、この名前を挙げる神戸人は少なくないはずだ。ガラス越しに宙を舞う白い湯気が客を誘う光景は、三宮の日常でもある。

しかし、ある出来事を境に14億円もの莫大な借金を抱えることになった店の歴史は”波瀾万丈”そのものだった。ストーリーテラーは常務の安藤孝志さん。もちろん、全てがノンフィクションだ。

全てはここから始まった。

モグラボ編集部(以下、編集部):ではまず、店の創業時のことからお話をお聞かせください。
安藤さん:昭和29年10月1日に祖母の安藤春子が始めたのが家業の起こりですね。
編集部:場所はここで?
安藤さん:いや、ここではなく兵庫区の荒田町というところで。
最初の屋号は「ひさご食堂」といいまして。
編集部:食堂ということは、創業当時は中華色はなかったと。
安藤さん:まったくの大衆食堂です。うどんとかおでんとかを売っていたと聞いています。うちの祖父はサラリーマンでして、日産系のディーラーの社長か会長の運転手をしていたそうです。祖父の給料では子供三人を食わせていけないから、店を始めたと。

「三宮一貫楼」のルーツ「ひさご食堂」。

編集部:そこから中国料理を出すに至った経緯は。
安藤さん:その当時、屋台から財を成したラーメン屋の『一貫楼』は神戸で有名やったらしいです。要は、うちは暖簾分けで、祖母が看板をあげるために『一貫楼』で修行をしたと。
その後に独立して「ひさご食堂」から「荒田一貫楼」に屋号が変わって、ラーメン、餃子、炒飯を売り始めました。
編集部:ちなみに『一貫楼』は華僑の方がされていた店なんですか?
安藤さん:いや、日本人です。当然ですよね、神戸やったらそういう疑問が沸くのは。僕も言われますよ。安藤さんは本当に日本人なんですかって。

編集部:当時、日本人が作る中国料理は珍しかったのでしょうか。
安藤さん:いや、どうでしょうね。ザ・本格中華というわけではないですから、どっちかといったらラーメン屋さんという位置づけだったと思います。今はちょっと珍しくはなってきているんですけど、中華と洋食を同じ店でやるのはけっこう多かったんですよ。うちも、僕が小さい時には、カレーやオムライス、トンカツ、あとポークチャップとかね。売ってましたね。
編集部:へぇ〜、それは面白い!今も洋食メニューはあるんですか?
安藤さん:うちはもうないですね。
でも、神戸のトレンドとして、いまも中華と洋食を出すお店はありますよ。兵庫区の『柳原一貫楼』さんとかはカレーライスもやっていたはず。あとは、『マルヤ』さんは洋食なんですけど、そこは逆パターンで中華そばを売っていたり。今もされているかは分からないですけど。
編集部:初めて聞きました。港町神戸らしい話ですね。
安藤さん:華僑さんのお店でも、中華料理屋でカレーを出しているところはありますね。
編集部:スープは鶏ガラスープで。
安藤さん:そうそう。

新天地を求め、三宮へ。

編集部:祖母の春子さんは何歳ぐらいの時にお店を始められたんですか。
安藤さん:大正15年生まれで、30歳そこそこですかね。そして、昭和41年に2号店を。
編集部:それは、この場所で?
安藤さん:そうです。その当時の売り上げレベルでいくと、すごい借金をしたと聞いてますね。
編集部:どのような店舗だったんでしょう。
安藤さん:僕の記憶では木造2階建てでしたね。今でこそ、うちの立地は三宮センター街の括りで紹介されますけど、ここは三宮センター街3丁目という筋で、当時はどちらかというと“場末”でした。

編集部:その当時から中華街はあったんですよね。
安藤さん:ありました。でも、その当時は神戸の繁華街というと新開地でしたね。
この辺りは、アーケードはないですけど、柳が植わっていて、柳筋って言われていました。
編集部:場末という割には風流な名前ですね。
安藤さん:神戸では風俗街を柳筋っていうから、どうなんだろう…(笑)。

三宮一貫楼本店。現在は神戸の一等地となった三宮センター街の角地に建つ。

安藤さん:店の前身は肉屋だったと聞いてます。
編集部:新たに建てられたわけではないんですね。
安藤さん:親父に聞いた話ですけど、物件を見に来た時に、タクシーの運転手さんが営業前の店の角に立ち小便をしていくような場所だったと。
編集部:商売向けの場所というわけではなかった。
安藤さん:どうなんでしょうね。でも荒田町と比べたら繁華街に近いですし、勝負かける気持ちやったんやと思います。

名物「豚まん」の誕生秘話。

編集部:オープンの時のメニューはどのような?
安藤さん:オープンからではないんですが、名物を作らなあかんということは思っていたようです。そんな時に『551蓬莱』におられた職人さんとご縁がありまして。
編集部:当時、蓬莱さんは神戸にはなかったんですかね。
安藤さん:当時は大阪だけでしたね。でも、蓬莱さんは既に人気店だったと思います。それで、紹介された職人さんが親父と同い年で意気投合して。
うちの親父に先見の明があったと思うのは、料理と豚まんの厨房を分けて、豚まんの厨房を通りに面した場所に据えたことです。通りから豚まんを作っているのが見える、実演販売というスタイルをやりだしたんです。
編集部:実演販売は当時、珍しかった?
安藤さん:うーん、どうかなぁ。でも、親父はやっぱり見せる事が大事やって思っていたんだと思います。だって、厨房を分けるのは、あきらかに非効率ですよね。
編集部:それまでは豚まんはなかったと。
安藤さん:最初はなかったです。順番は分からないんですけど、豚まんをやるために蓬莱さんの職人を呼んだのか、呼んだ人がたまたま豚まんができたからやりだしたのか…。
親父はおそらく、最初からやる気やったようには思いますけどね。
そして、これもご縁の話で、その職人さんは、いまや僕の叔父です。ふふふ。
編集部:え!?
安藤さん:うちの叔母の旦那になったということ。
編集部:豚まんの職人さんが身内になったと(笑)。それもまたご縁ですね。

豚まん専門の厨房。最前列には蒸し器を並べ、臨場感を演出。

編集部:当時、豚まんで有名な『老祥記』さんは、既にありましたでしょうか。
安藤さん:ありました。『春陽軒』さんもありましたし、『四興樓』さんもうちより歴史はあります。『太平閣』さんもあったと思います。うちは創業65年ですが、神戸で豚まんの企業の中では後進ですね。
編集部:一番、古いのは『老祥記』。
安藤さん:そうですね。
編集部:多くのライバルがいるなかで豚まんをやろうというのは、かなり勇気がいることだったと思うのですが。
安藤さん:そうですね。ましてや日本人でね。これも親父の先見の明があったということですかね。

編集部:その時からレシピは変わっていないんですか?
安藤さん:変わっていないですね。全部、手づくりというのはその時から変わらずです。
51年ぐらいに鈴蘭台に3号店を出した頃、従業員数が必要で、年々増やしていってたんです。労働力として地方の中卒生を住み込みで集めていました。
僕らも小さかったので、毎年、お兄さんお姉さん増えて行くわという感覚でしたね。でも、10人入ってきて、1年後には残るのは1人ぐらい。
編集部:中卒生にはなかなかハードでしょうしね。
安藤さん:ただ、えぇ時代やったと思いますよ。皆、独立という夢を持っててね。

時はバブル、地上げ屋との戦い。

安藤さん:須磨区板宿の大型開発に、うちの親父の友達が関わってたんですが、その関係でそこに新店舗を2軒も出店して…身の丈に合わない借金はここから始まったと思うんですけど。
編集部:全てはそこから。
安藤さん:そうですね。

編集部:お父様が2代目で。
安藤さん:そうです。50年代に入って出店ラッシュ、バブルもきてました。
で、今の本店の話になるんですけど、ここはもともと借家で60万円の家賃で入っていたんです。バブルなんで大家さんが「土地と建物を買わへんか」という話があり、その時の売値が2億円でした。
家賃60万で入っている身としては大きすぎる買い物なので、先代は「もう少し賃貸でやらせてさせてほしい」と伝えました。そこまでは良かったんですが、その大家が無断で別の不動産屋さんに売ってしまったんです。しかも、その不動産屋も別の不動産屋に売って、3番目の大家がいわゆる地上げ屋系のところで…。神戸でもすごく有名な不動産屋だったんですけど。
編集部:でも地上げ屋なんですね。
安藤さん:そう。それで、うちが家賃を納めに行っても受け取らない。「出て行け」の一点張り。
編集部:そもそも、転売は法律的にはありなんですか?
安藤さん:売買契約としては成立します。ただし、テナントで入っている側も借地借家権という権利はあるので、主張もしたんです。そこから色々とややこしいことが始まっていきました…。
店のシャッターが壊れて工務店を呼ぼうとしたら、どこで見ていたのか怖いお兄さんたちがやってきて、「誰の建物にナニしてくれてんねん」と。

編集部:当時のことは覚えているんですか。“怖いお兄さん”のこととか。
安藤さん:いや、僕は聞いた話ばかりですね。当時は中学生でした。それで、家にも無言電話や嫌がらせの電話がかかってきましたし。他にも朝、店に来たら、店の看板が不動産屋の名前に変わっていたり(笑)。
編集部:それはまた手のこんだことを…。

安藤さん:それでお互いに弁護士を立てて、弁護士同士の書簡のやり取りのなかで、ビル建てたるから3階に入れとか、1億円やるからとか…。でも、全部拒絶して。多分、4年ぐらいそういうやり取りをしていたと思います。
編集部:4年も!
安藤さん:本当に怖かったです。うちではないのですが、この近所の飲茶の店も揉めていたようで、ある日、ダンプカーが突っ込んで営業不能になったんです。
編集部:怖い…。というか、もう戦争ですね。
安藤さん:そうですね。他にも、ぼや騒ぎがあったりとかね。

編集部:4人兄妹ということですが、弟さん、妹さんたちも怖かっただろうに。
安藤さん:いや、僕が一番下。
編集部:てっきり、孝志さんがご長男なのかと。
安藤さん:兄弟のなかでは、僕が表現するのが得意やから、こうやって“語り部”に。
編集部:語り部(笑)。なるほど。
安藤さん:社長が長男で、次男が専務、僕が常務です。あと、姉も取締役としております。

安藤さん:店の方は、バブルも弾けて土地の値段もゆるやかに落ちてきていたので、これ以上無益な戦いをしても意味ないなと思ったんでしょうね。和解しようってなりました。
でも、不動産屋も収支があります。最初の大家から提示されたのが2億円でしたから、転売されて5、6億円にはなっていたはずで、この時に不動産屋から提示された値段は20億円でした。
編集部:桁が……。
安藤さん:結局は、12億5000万で手を打ったそうです。先代は「もうちょっと値切るつもりやったんやけど、うちの顧問弁護士がこの辺にしとけと言ったから」と。
かなりの大金ですが、当時は銀行も貸してくれるんですね。ただ3億円ほど担保が足りないと言われた。そこで親方の一貫楼本店製麺所の社長にお願いして、土地建物を担保に入れさせてもらったようです。
編集部:よく首を縦に振ってくださいましたね。
安藤さん:すごいと思いますよ、本当にすごいと思う。3億円分の担保も確保できたので、とりあえず銀行から改装費用を含めて14億円借りたんですよ。
ただね、売り上げだけは好調やったんです。豚まんも順調に売れていたので、借金も順調に返せていたんですけど…。

(第2章に続く)

撮影/伊藤 信   取材・文/吉田 志帆