牡蠣を食べるのは日本では一般に冬ということになっている。秋が深まってくるとあちこちの食堂でカキフライ定食はじめましたとかのメニューが出始め、本格的な冬が近いことを感じさせる。やがて、本格的なシーズンに突入し、生の牡蠣をレモンで食べられる至福の季節がやってくる。冬の牡蠣は季節感を強烈に感じさせてくれる食材のひとつである。しかし、冬を待たずとも旨い牡蠣がある。岩牡蠣である。
岩牡蠣がどこででも食べられるようになったのは、流通の発達のおかげなのだろう。新潟ではじめて食べたときには、季節はずれという偏見がぬぐえず、恐る恐る口にしたものであった。もちろん、口に入れたら、磯のさわやかな香りと、濃厚なうま味に圧倒された。養殖の冬牡蠣のように餌でおなかをいっぱいに膨らませてはいない。牡蠣は海のミルクという言葉があるが、岩牡蠣を食べるとそれが納得できる。クセの無い、品のよい甘味を堪能させてくれた。
岩牡蠣は貴重品であり、居酒屋にいつでもあるものではない。水のきれいな海域の天然物で、数年以上かかってあのように大きくなるのだから、なかなか手に入らない。最近では養殖に成功している例もあるが、夏に出荷するのだからやはりきれいな海水や鮮度の保持が必要なことは同じである。
「今日は、あれ、ありますよ」
ご主人が笑顔でわざわざ知らせてくれるほど、磯から遠い街では手に入りにくい貴重品である。当時は、知る人ぞ知るといったものであったのだろう。
大きさがレンガほどもある牡蠣殻は長い年月岩場にへばりついていた経歴を語っている。これをこじ開けるのは大変だそうだ。しっかりと巨大に育った肉体の頑丈さが自然の厳しさを物語っている。感謝しながら味わう気にさせられる。酒も純米吟醸の冷やした清酒でなければ貴重な牡蠣に対して申し訳が立たない。
最近はオイスターバーが季節を越えて大人気である。満員で予約が取りにくい店も多い。欧米のブランド生牡蠣を旅行気分で白ワインで食べるのも悪くない。種によって貝殻の形も味わいも異なるのも楽しい。
本場ボストンの元祖オイスターバーもブームに乗って世界遺産のように旅行客が押し寄せている。街中にオイスターバーがあり、生牡蠣を食べに来る人で繁盛している。名物の茹でた巨大なロブスターとの取り合わせは豪快で壮観である。
生の貝で思い出すのが、ボストンで食べた屋台の生ハマグリである。これは初冬だった。薄暗い道ばたの裸電球の下で、分厚い毛糸のセーターを着込んだいかにも漁師らしいおじさんがタバコをふかせながら客を待つ。水夫のような帽子をかぶり、手元には取れたてのクラムが小山のように積まれている。多分2ドルほど払ったと思うが、小型のナイフで手際よく6個のハマグリの殻を開けてレモンを絞ってくれた。皿もない。屋台の上の大きなまな板の隅が私のコーナーである。作業を終えるとおじさんはタオルで手を拭きながら、だまってタバコに火をつけた。
先客のアメリカ人はケチャップをたっぷりかけていたが、それではおいしくなさそうなのでそのまま食べた。ぷっちりと肥えた新鮮な身が、海水の塩辛さとマッチしてこの上も無くおいしかった。雪の降りそうな寒い風が吹いていたが、裸電球と6個のハマグリで満足してしまった。夏でも冬でも、磯の香りはおいしく懐かしい。
もうひとつ、夏を待ち遠しくさせてくれるのが生のホヤである。30年ほど前に青森で食べたのが初めてであった。これこそ得体の知れない生物で、おっかなびっくり口にした。一度食べてファンになった。
皮はザクロのような色合いで、植物とも動物とも見分けがつかないような不気味な存在感がある。包丁を入れると「ぶしゃっ」とあたりに塩水を巻き散らかすのが憎い。肉はしっかりしていて、独特の風味があり、好き嫌いが大きく分かれるところが万人向きではない。
ホヤも清酒によくあう。それ以外の酒はちょっと考えにくいほどだ。ソウルの夜の屋台ではホヤは焼酎のあてとして地元の人たちにも人気であった。日本人と見るや「ホヤ、ホヤ」と屋台の呼び込みも激しくなる。日本よりも少し小ぶりであったが、これもなかなかに旨かった。最近ではソウルでも日本の清酒がブームである。ホヤがますますおいしくなるに違いない。
出典「逓信協会雑誌」(平成20年9月号通巻1168号)