TOP / Culture / 悪食のススメ

悪食と呼ばれる人がいる。周囲が食べる気にもならないものを平気で食べる。一般に嫌われるものほど悪食の価値は高まる。「うえーっ」という周囲の悲鳴が嬉しい。

ところが、昨年上海でちょっと凄い経験をした。会社から出向して数年滞在する日本人に連れられて本格的という四川料理の席に着いた。注文は彼が流暢な中国語でやってくれた。珍しいものを食べようと言う。

悪食といったら現地の人たちに叱られる。しかし、日本では食べない食材ばかりだ。予想はしていたがとんでもないものばかりが出てきた。いや、私の友人がとんでもないものばかり注文したという方が正しい。

動物園直送?

動物園のような下町の市場を見て何でも食べる人たちであることは理解できていた。覚悟していたヘビは心を強く持って口に運んだ。スープにほんのりと薬膳風の香りがしており、肉には歯ごたえがあってこれはおいしかった。

ふたを開けたら甲羅を背負った大きな亀が大の字にうつぶせになっていたのには驚いた。リアルというよりもそのままである。野菜や茸などをつまんだが、黒光りするご本尊にはとうとう手が出なかった。次回は挑戦したい。

カリカリに煎ったサソリは平気で食べられた。香辛料が利いてくせになりそうなおいしさだった。その次はカエル。揚げたり野菜と油で妙めたものは極上の味だった。少し遅れて出てきたスープには昔解剖実験で使ったようなカエルの皮膚が見えて背筋が凍った。

麻婆豆腐は不条理のおいしさ

四川料理といえば麻婆豆腐。実はこれがお目当てだった。大量の山椒で舌が完全に痺れれきったうえに、真っ赤な唐辛子が生き残った舌の感覚をさらに虐める。息も絶え絶えになった味覚が、豆腐と汁のうま味をかろうじて伝える。いじめとしか思えない。しかし、この不条理な料理がやみつきになる。

この店の客は裕福な地元の人が多いというが、どれも日本の中華レストランでお目にかかる普通の料理ではなかった。お腹は膨れたのか痛いのかわからないが、貴重な体験であった。

食文化がないとゲテモノに見える

お値段からしても現地では高級な料理だ。ヘビとかカエルだとか説明されると多くの日本人は食欲が落ちる。だが、うまく調理されたヘビやカエルは実においしかった。

自分の食文化に含まれない食材はゲテモノに見える。私は特に悪食趣味ではないが、蜂の子はおいしく感じる。非常においしい。そう言うとびっくりする人が多い。子供の頃に食べたから慣れている。炒り卵みたいな味でなつかしい。体験のない人には拒否されるという意味でゲテモノなのであろう。

安全安心が溢れる日本の食卓

私たちはかなり臆病になったのではないか。地域の伝統料理も減っている。それは現代の食の構造を反映しているように思われる。

日本人は素性の正しい食品ばかりを食べている。食材や食品には詳細な表示や情報が提供される。生産地や物流経緯も明らかだ。情報が安全を保証する。それでも飽きたらず、より完璧な安全を手に入れるためにさらに詳しい表示を欲しがっている。

情報は大切だが行きすぎは要注意だ。情報が味覚に代わって安全の基盤となった。現代人は味覚が鈍くなっていく。チャレンジもしにくい。コンビニやスーパーにある食品と食材だけで多くの人は生活している。いつの間にか、選択肢が画一化してきている。選択肢から外されたゲテモノは廃れてゆく。

悪食は情報過剰への挑戦か?

こんな世の中であえて悪食を自認するヒトは、冒険心もあるだろうが、食が過剰に情報の影響を受けることに内心反発を覚えているに違いない。
 「そんなものたべるんですか」
 「食べてごらんよ、おいしいよ」

旨いかまずいかを決めるのは味わいだ。そんな反骨心が一方で悪食を支えている。中国の食卓では食材が動物の分類学上どんな位置にいようとも、旨ければ高級食材だ。旨く仕立てる伝統技術もある。次第においしさに慣れてしまうと、あられもない姿煮の不気味さなど気にならなくなるようだ。むしろ食欲をそそるらしい。

悪食こそが食文化?

どんなものでも長年食べ続けられたものは好ましい食材になる。それが食文化であると私は考えている。見かけや味が悪くても繰り返し食べれば好きになるのが食文化だ。鯛の活き造りなどは世界的には一級品のゲテモノといえる。ゲテモノの中にこそ食文化がある。日本ではそんな食文化が減りつつある。ありきたりの食材しか食べられないのは文化のない現代人の情報依存症なのかもしれない。

出典「逓信協会雑誌」(平成18年10月号通巻1145号)