メニューほど不思議なものはない。レストランでは料理を選択する重要なガイドとなる。披露宴などの宴会では、これから出される料理を紹介する役割がある。
飛行機の機内食のように、チキンかビーフか選択を強要する予告であることもある。いずれも、文字情報だけでお客は料理をイメージするのである。人間の食経験とイメージ能力に依存する、高度な情報のやりとりと言える。
メニューを前にすると期待に心が躍る。上映開始直前の映画館と同じだ。選んだ店が当たりで、やる気のある意欲的な料理がメニューに並んでいるときほど幸せなことはない。選ぶのに迷う幸せな焦りも楽しい。
店構えは気を引くけれど、料理は大衆食堂以下の陳腐なのは哀しい。やる気のなさもメニューに現れる。水を飲んで出てくるわけにもいかない。意気消沈。メニューを前に苦渋の選択である。
料理屋に足を踏み入れると、大げさに言えば、料理との新しい出会いを期待する。大冒険でもしてやろう。グルメの言う新しい天体の発見とまではいかずとも、新しい味覚を楽しみたい。旅行中や時間に余裕のあるときには特にそうだ。そしてメニューを開く。
ところが、である。不思識なことに、しばらくメニューを眺める間に、自分の経験から理解できる料理ばかりを探している自分に気づく。店に入る前の未開地の探検隊の気分は消えている。新しい天体の発見どころではない。得体の知れないものを注文する気にはなれないのだ。確実においしさが予想できるものを選んでしまう。大概の人がそうなのだ。
バカにされたような気になる前衛絵画や、ストーリー不明のシュールな映画のような難解は、料理にはあってはならない。客が怒り出す。食はわかりやすさが一番なのだ。客が望むのは、材料や料理法が明解で、おいしさが十分予想できて、しかもささやかな発見がありそうな料理。平凡ではいけない。過激でもいけない。
人間は食べたこともないような新しいおいしさを欲していないのではないか。メニューを眺めるたびにそう感じる。私たちが本当に選びたいのは、食べる前から味が予想できる料理である。あたりまえのものばかり注文している。実は、味覚の冒険なんてしたくない。選択の失敗は許されない。
保守的と言えばその通りだけれど、安全な食を求める野生動物の本能の名残であろう。見知らぬ食物は怖ろしい。メニューから料理を想起するのはお客の食体験である。見たこともない料理を正確にイメージできるはずがない。
だから知らない料理は注文しにくい。そんなナイーブな人間の感覚を、メニューの作者はくみ取らねばならない。
国際線航空機の機内食メニューは誰が書くのだろう。たいしたこともない料理を実にきらびやかに仕立て上げるものだ。三つ星レストランにひけを取らない迫力がある。
「春野菜の温サラダ、タスマニア産サーモンのポアレ・香草ソースにガーリックライスを添えて、デザート、シェフの選んだ季節の果物」
どんな料理が出てくるのだろう。春野菜も香草のソースも耳に優しい。やっぱり、ワインは白だろうか。
しかし、スチュアーデスが無造作に置いていったプラスチックの盆をのぞくと、
「なんだい、洋風シャケ弁じゃないか」
膨らんだイメージとのギャップは大きい。
これと同じくらい落差があるのは外資系高級ホテルのレストランの朝食である。タマゴの料理法や焼き具合、ベーコンの硬さ、その他諸々、ウェイターが、うやうやしく執拗に訪ねる。
国勢調査のほうがよほど簡潔だ。どんな高度な調理をするのだろうと待つ間に、つい期待する。その結果出てくるのが、ただのゆでタマゴとべーコンなのである。
結婚式の披露宴には、小さな文字でぎっしり書かれた料理の品書きが置かれる。食べ切れるだろうかと心配するほど並んでいる。
しかし、嘘ではないのだけれど実感とは遠いことが多い。長い皿に小さなへんてこりんな小さなものが三つ四つ並んでいる。別に感激もなく一口で平らげると、それが、ホタテのタルタルキャビア添えと、牛肉のカルパッチョとウズラのテリーヌだったりする。メニューで確認して納得する。これでお品書き三行消費である。針小棒大とはこのことだ。
文字の情報でお客の頭に適当な質と量のイメージを与える。メニューを書くも読むのも実に高等な脳の働きなのである。イメージはしばしば暴走する。メニューにまつわる笑いのネタは尽きない。
出典「逓信協会雑誌」(平成18年9月号通巻1144号)