朝市を巡るのが楽しみであった。山村の朝市では、農家のおばさんたちが畑から運んできた新鮮な野菜がある。春には山や野原から採ってきた山菜が並ぶ。私の近所では川魚のなれ寿司が顔を出すこともある。

よく行く日曜朝市には、たらの芽が次々と芽を出す魔法のような枝を売る人が毎年現れる。枝を水につけておくだけで十数個も芽が出る。フキノトウも朝市の新鮮なものはえぐ味が少なく格段に香りがいい。

いつも陶器の食器を売るおじさんが現れる。山奥のほうに窯をかまえて暮らしている。食器は目立たない味わいなのだが飽きないし使いやすい。なによりも料理がおいしく見える。おじさんの焼く大小の皿や茶碗や湯飲みがいまではわが家の水屋の大半を占めている。おじさんは朝市の顔である。

ゴールデンウィーク頃になると朝市は筍だらけだ。短い期間だけれど楽しみな季節である。この頃には山椒の若葉を売る人が店開きをする。贅沢の極みと言うべきは山椒の葉っぱを山のように集めて醤油で煮たもの。一抱えもあるほどの量の葉っぱが、煮てしまえば茶碗一杯くらいに縮んでしまうが、味は濃い。山椒の香りと刺激が食をそそる。弁当の隅にでもあればこれほど旨いものはない。

村の生活が感じられる

季節限定のイノシシ汁も味わい深い。絵の具で描いた特別上手でもないイノシシの看板も毎年のことで見慣れてしまった。最近の山奥の村はシカが作物を荒らすので困り果てている。積極的な狩猟も始まったようだ。シカの肉をおいしく食べる研究も進んでいる。遠からずシカ肉がスモークや干し肉などに加工されて出てくるに違いない。

冬の漬け物の素材となる身欠きニシンやカブラやこうじを売るおばさんたちは、材料の下準備や切り方、漬け方のノウハウまで丁寧に教えてくれる。数人おばさんは言うことがそれぞれ微妙に違ったりする。喧嘩にならないようにこちらが取りなしたりするのもおもしろい。ともかく今年は漬けてみようという気になる。聞けばこの村ではどの家も身欠きニシンとカブラのこうじ漬けを漬けるそうだ。村の生活がそのまま朝市に現れている。

加工食品を売る店の出現は朝市の変質

どんな素朴な朝市でもかならず変質がおこる。評判になれば都会ナンバーの車が増え、客の人相や服装の色がどことなく違ってくる。集まったお客を相手に加工品を売る人々の出現が朝市の変質の兆候である。山菜の煮物や地元の野菜の漬け物など、地域の特徴がよく現れているものが多いうちは健全なのだが、都会から大勢の人が押し掛ける盛況になると、いつしか、焼き鳥、みたらし団子、おはぎ、餡餅、たこ焼き、山菜ソバなどと縁日の屋台のようなのが増える。

同じような店がいくつも並ぶ。しかもそれらが結構盛況なのだ。何を買おうと何を売ろうと人の勝手ではあるが、調理されたものが並ぶと妙にしらけてしまう。

先日は、恐れていた手作りパンの店が現れてしまった。おきまりの絵文字とパステル調の色遣いの看板。自然、天然、無農薬の言葉が踊る。あまりに安易で勘違いだ。幼稚園の日曜バザーみたいなのはここでは勘弁して欲しい。

素朴な朝市には、食の素材が多い。素材は日持ちがしないから、訪れるたびに新しいものが現れる。季節感があふれる。素材の豊富な朝市は宝探しのような気分だ。

整いすぎた流通の退屈からたまには逃れたい

私たちの生活は、整った流通機構に守られて不自由なく成り立っている。ありがたい面も多い。何も問題はないのだがどこか退屈で窮屈だ。整いすぎた流通にわれわれは飽き飽きしている。冒険がない。野山や深山を感じさせてくれる生々しさがない。掘り出しもの食材が現れるチャンスが少ないから驚きが足りない。

便利だけれど退屈な日常生活を離れたい。朝市は卸売市場や問屋街あるいは手作り蚤の市やガレージセールなどと同じく日常的ではないびっくりするような掘り出し物が期待できるイメージがある。ガレージセールほど他人の生活に立ち入らずにすむ。手作り市ほど押しつけがましくない。気楽に歩くだけで楽しい別世界だ。たまには一般流通の網の目から逃れた掘り出し物がある。

もともと野山にあって商業にはなじまないものとか、農協への出荷のタイミングがあわなかったものとか、生産者の家族の小遣い稼ぎとか、収穫が不定期でどうにも出荷しにくいものとか、聞き慣れない食材なので市場に出にくいとか、ワケありのものに心が惹かれる。

朝市を訪れるたびに、変わらないようにと祈っている。

出典「逓信協会雑誌」(平成19年9月号通巻1156号)