おいしいというのは非常によく使われる言葉だが、おいしさの感覚を明瞭に説明することは簡単ではない。おいしさが複雑な要素を含み、単純ではないからだ。飛び切りおいしいものを一口だけ口に含むと非常な幸福感とともに「もっと食べたい」「食べ続けたい」という激しい飢餓感に襲われる。食べる前よりも、もっと食べたくなっている。我慢できないような切ない感覚である。この飢餓感がなければおいしさとはいえない。おいしさの中には満たされない苦しさが混じっている。
もっと食べたいという感覚は食べだしてからしばらくすると急速に弱くなる。おいしさも同様に減退してゆく。いくら好物でもずっとおいしく食べ続けることはむずかしい。かならず「飽き」のような感覚がストップをかける。おなじものばかりを食べ続けると、もしも毒物であれば危ない。そんなリスクを回避するために「飽き」が生じると説明されている。しかし、大好物ならばストップはかかりにくい。別腹である。飽きや満腹感のような食欲の沈静化を振り切って、いつまでも長く食べ続けられるものがおいしいものであると言える。
おいしいものは「がつがつ」食べてしまう。行儀が悪いとわかっていても、やめられない。少し前に、汗をかきながら若い男性が一心不乱に即席茶漬けをかき込むテレビのCMがあった。古い扇風機を回しながら汗だくで食べ続ける姿は、茶漬けがおいしそうだとリアルに感じさせた。おいしいものに対してがつがつと食べたくなるのは、動物に共通の行動である。実験動物が食べ物をどれだけおいしいと感じているかを科学的に判定する指標にも「がつがつ食べる」行動が使われる。これは短時間リック回数測定と呼ばれている。リックとは舐めるという意味である。砂糖水や油脂など、実験動物が好きな液体を用意して、最初の一分間に何回ぺろぺろなめたかを機器を用いて正確に測定する。ネズミを使った実験によると、高濃度の油脂では一分間にリックが約二百回にも達する。まさにがつがつ飲む。
人間にも早食いというのがある。満足するまで一目散に食べてしまう。単なる性格の問題ではなく、動物と同じおいしいものを正直にがつがつ食べる行動である。だから簡単に直せるものではない。むしろ、早食いではない人は、おいしさに対する興奮が弱いのかもしれない。やがて、急いで食べたくなる衝動は弱くなり、満足感が強くなる。もう、がつがつ食べる気は起こらない。そこで満腹感の出番である。
一口だけ口に含むともっと食べたくなるもの。これが本当においしいものである。 多くの人に賛同してもらえそうなものとして、まず、チョコレートとポテトチップス。一口ではやめられない。私の趣味では、じゃがりこ、柿の種、エビセンベイなどのおつまみ系。焼き栗もやめられない。ローストした木の実もおいしい。節分の豆も食べだしたらとまらない。塩をぱらぱらと振った枝豆も旨い。魚介類では、茄でた松葉ガニ、マグロのトロ、トロサーモン、ウニ、うなぎ丼もいい。焼肉の上カルビ、カレーライス、ラーメン、牛丼なども上位に入るだろう。イタリアならば、にんにくとトウガラシとオリーブオイルだけの温かいスパゲッティ・ペペロンチーノ、十分に発酵の進んだパルミジャーノ、生ハム。ご飯に乗せた明太子、焼いたタラコもやめられない。正月には焼いた餅にバター片をのせて海苔を巻いて醤油を一滴、思いつくだけでも垂涎。ならべだすと際限がない。
これらの共通点として、油脂が豊富に含まれている。うま味も強い。甘さが魅力のものもある。油脂と甘味そして旨味の豊かな食品は口に入れるととまらないおいしさの力が強いことが多い。ラットなどの実験動物でも同じなのだ。がつがつ食べてしまう食品の特徴と言える。
人間のおいしさはもう少し複雑である。がつがつしたくなるのは動物でも子供でもわかるおいしさである。一方、人間の大人には、ほろ苦さや酸っぱさ、独特な発酵香など、子供が敬遠するおいしさがある。動物的なおいしさを卒業した大人は、このような複雑なおいしさに向かうのである。このあたりのおいしさの理由は、科学的にもよく説明できない。一口目は旨くないことが多い。匂いが気になることもある。しかし、長く食べなれておいしさがわかってくる。食べなれた末に獲得した「マイ・おいしさ」なのである。
出典「逓信協会雑誌」(平成20年7月号通巻1166号)