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京都でイスラエル料理を楽しみ、中東の旅路に思いをはせる(後編)

濱中 新吾

龍谷大学法学部法律学科教授

京都でイスラエル料理を楽しみ、中東の旅路に思いをはせる(後編)

濱中 新吾

龍谷大学法学部法律学科教授

甘く切ない、バグダーシュの味わい

さて、上記の写真もヨルダンのアンマン滞在中に撮ったものだ。
バグダーシュというアイスクリームである。バグダーシュの本店はシリアのダマスカスにあった。バグダーシュ・アンマン店は本店が移転したものだという。この写真を撮った2014年8月当時、シリアの内戦は4年目に突入しており、政府のお膝元である首都ダマスカスでも激しい戦闘が展開されていた。アンマンで味わったバグダーシュの味は甘く、豆の風味が効いていて、それでいて切なかった。

真夏の中東で食べる洗練されたレバノン料理

ヨルダンは1994年にイスラエルと和平条約を結んでいる。それゆえイスラエルの入国スタンプだらけだった私のパスポートでも入国することができた。しかし2016年9月に訪問したレバノンは現在もイスラエルの敵国である。外務省に限定旅券なるものを発効してもらい、レバノンの首都ベイルートに入った。レバノン料理はアラブ料理の中でもっとも洗練されており、美味だという。実際、ベイルートでは生肉を出す店がある。ベイルートではオリーブオイルをかけた生肉を楽しむことができるのだ。

真夏の中東で食あたりになりかねない生肉を出す、というのはそれだけ洗練されている証拠である。

ヒズボラが設営した記念公園

2006年7月、イスラエル国防軍は国境を越えてレバノン領内に進撃した。ミサイル攻撃を続けるヒズボラ(神の党)を殲滅するためである。この第二次レバノン戦争では34日もの間、戦闘が続けられた。しかし国防軍はヒズボラの殲滅には失敗し、50人を超える戦死者を出した。無論レバノン側の死者数は国防軍兵士の戦死者は優に超えたが、イスラエルの国論は当時の政府を強く非難するものへと変化した。戦争から10年後の2016年、私はヒズボラが設営した記念公園に居た。

擱座したイスラエル国防軍のメルカヴァ戦車が「戦利品」として誇らしく飾られている。この公園はヒズボラの本拠地だったところであり、現在は「ジハード(聖戦)・ツーリズム」のテーマパークとして公開されている。併設の土産物屋に行くとアメリカ人らしき若者がハチマキを締めて銃を構える「殉教者スタイル」で記念写真を撮っていた。

第二次レバノン戦争に思いをはせながら

2009年7月から12月まで、私はエルサレムのヘブライ大学で在外研究期間を過ごした。この時、いろいろな手違いで学寮の学部学生向けフラットに2ヶ月だけ入ることになった。たまたまルームメイトになった25、6歳の学部学生は英会話が達者で、私の話し相手になることがしばしばあった。「何の研究をしているのか」と尋ねられたので、「戦争と世論の研究をしている」と答えたら、「2006年の第二次レバノン戦争を知っているか?」と返された。「ちょうどその戦争について調べている」と言ったら、「オレはあのとき従軍していた。戦車に乗ってレバノンに進軍した。」と聞かされた。興味深いので戦争のことを色々尋ねたが、「一兵卒に分かることは少ない・・・しかし、あの時の政府の戦争指導は本当に酷かった」という返事だった。

2016年9月、私はイスラエル国防軍とヒズボラとの間で繰り広げられた10年前の戦闘に思いをはせながら、レバノンとイスラエルの国境に望んだ。いつもはイスラエル側から見る風景が、レバノン側からだと違って見えるような気がした。ヒズボラは義勇兵としてアサド政権側に与し、シリアで戦闘を繰り広げている。思考がシリア情勢と中東国際政治に及んだとき、ふと2014年8月にアンマンで味わったバクダーシュ・アイスを思い出した。あのバグダーシュは再びダマスカスに本店を構えることができるのだろうか。