TOP / Agriculture / おいしさの科学の夜明け

食のおいしさの科学に関するシンポジウムが3月18日に、名古屋で開催された。日本農芸化学会の年次大会だ。超満員で、立ち見はもとより、会場に入れない人も多く出るほどの盛り上がりとなった。このテーマは非常にホットなのである。
おいしさを科学的に扱うことは、学術のみならず、産業会にとっても長い間の懸案の問題である。おいしい食はあふれている。しかしおいしさを科学的に説明する理論は無かった。経験とフィーリングしかない。切れ味のいい視点を切望することは当然である。

“おいしさ”の構造を考える

科学的説明が困難な理由はいくつもある。最大のものは、おいしさが一つの学問分野では捉えきれない広範な要素を持つことである。細分化され、先鋭化した学術では歯が立たない。
研究の糸口を見つけることも難しい。いったい、おいしさは食の中にあるのか人間の頭の中にあるのか、そもそも実体はあるのかさえはっきりしない。そんな、泥沼のような問題に取りつかれたら、研究者として将来は無いぞと忠告されたことも一度ではなかった。
既存の学術の枠を取り外して更地からスタートすることを決めたのは30年ほど前だった。私たち消費者はおいしさを感じるのに、食物を口に入れてから1秒もかからない。しかも、どんな食べ物でも瞬時に判断出来る。おいしさの構造はそれほど複雑ではないはずだ。問題は、私がおいしいと言っても、隣の人は同じものをまずいと言うかもしれないという点だ。

“おいしさ”とはどこにあるのか

おいしさは、どこに存在するのか。この問題が、おいしさの前面にそびえる険しい崖である。それから何年も経て、ようやく切り口が見えてきた。
おいしさは食品の中にはない。食品を口にする人と当該の食品の関係の中だけにバーチャルに存在する。10年間の思索の結論である。
突然視界が開けて来た。食品をいくら分析しても分からないわけである。おいしさはそれを食べる人の頭の中にあったのだ。
人は、どのような時においしいと感じるのか。人間の頭の科学なのだ。
膨大な美味しさの関連論文を集めて斜め読みすると、論点は四つほどに分類された。生きるために必須のものはおいしい。食べ慣れたものは安心できて違和感がない。油脂や砂糖やうま味が豊かなものは、大人も子供も動物さえやみつきになる。脳が発達した人間は食べる前からおいしさを判断しようとする。予想が外れると違和感が生じる。情報の影響と言える。

これらの四つが脳のそれぞれ特定の部位で判断され、統合された結果がおいしさの感覚であると、確信した。付け加えるならば、皆で食べればなんでもおいしいという社会的なおいしさもありそうだが、これは、食品に責任はない。
今回の学会シンポジウムでは、四つの要素でおいしさを考える実例として、チーズの解析や酒と食の相性などの適用例が発表された。統計学的な手法を使えば、数字で評価も可能である。将来的にはAI(人工知能)が使える可能性もある。
やぶの中で握ったのは、確かにおいしさの尻尾であったという実感があった。

出典:2018年4月11日(水)京都新聞