二食目
『カレーライスの唄』阿川 弘之(筑摩書房)
カレーライス。
なんとも日本人にとって魅力的な言葉である。この、〇〇ライスという表現は日本特有のものではないだろうか。オムライスやチキンライスに始まり、ラーメンライスや餃子ライス、最近、見かけなくなったカツライスなど、いずれも食欲を刺激する言葉だが、その中でも最も我々日本人の身近にあるのがカレーライスであろう。
今回、紹介する『カレーライスの唄』は、1962年(昭和37年)より270回に渡り連載された新聞小説を単行本化したもので、昭和30年代の日本を舞台に、会社の倒産で失業の憂き目にあった若い男女が、力を合わせてカレーライスの店を開くまでの物語である。
筆者の阿川弘之は1920年(大正9年)生まれ。22歳で海軍に入隊し中国へ、26歳で復員後、志賀直哉の最後の内弟子として薫陶を受け、作家デビューを果たしている。阿川自身、大変な食通であり、脚本家の倉本聰は若かりし日、阿川に初めてご馳走になった夕食は阿川夫人手製のカレーであったと回想している。
物語の主人公である桜庭六助と鶴見千鶴子の二人が開くカレーライス店は、おそろしく辛くて旨いカレーを出す。にんにくと唐辛子をたっぷりと使い、食べている時は辛くて辛くてたまらないが、店を出てしばらくすると、あぁ美味かったとなるカレーらしいが、このカレーの味同様、物語の方もただの甘い青春物語ではない。
千鶴子は東京の中産階級の生まれで、失業しても直ちに困ることもなく、友人とスキー旅行へ出かけたり、大学生のボーイフレンドとドライブデートに出かけたりする。その一方、地方出身者で、戦犯として処刑された父を持つ六助は、失業後たちまち生活に困窮し、故郷の広島の母のもとで糊口をしのぐ生活を送ることになる。阿川はこの作品の中で、千鶴子の明るく活発な性格を通して戦後日本の希望を、父の死と向き合いながら生きる六助を通して未だ残る戦争の傷跡を書いてゆく。
作中での六助の言葉に次のようなものがある。
「憎むことの反対は、愛すること、許すこと、理解しあうこと、感謝することでしょう?
世の中の人がみんな、非難し合うかわりに話し合い、憎むかわりに許し合えば、戦争なんて起こらないとおもうよ」
この六助の想いから、二人が開くカレーライス店の屋号は「ありがとう」に決まる。
阿川は晩年、次のように語っている。
「戦死した海軍の同期はもう五十回忌を終えている。それだけの時間が経っているのに、自分が代わりに死んでいたかもしれないという思いは消えない」
戦犯の父をもつ六助が千鶴子と力を合わせ、「ありがとう」を繁盛店にしてゆくこの物語は、阿川にとって戦争で死んでいった仲間たちへの鎮魂であり、祈りにも似た平和への願いであり、戦争の当事者であった自分への戒めでもある。
唐辛子の辛さは、微生物や菌からその身を守るためのものだと言われているが、ヒトはその辛味に旨みを加え、数多くの魅惑的な料理を生み出してきた。おそろしく辛くて旨いカレーライスは、戦争という「辛い」経験を乗り越えて未来へと向かう日本そのものだったのかもしれない。
また、二人が店を開く場所が東京の神田であるのも面白い。今でこそ神田はカレーの街として有名なわけだが、大正13年創業の「共栄堂」をのぞけば、老舗と言われる「ボンディ」の創業が昭和48年、「ガヴィアル」の創業が昭和57年と、神田がカレーの街となったのは、ここ40年ほどの間の出来事である。当時の阿川の目には既に、本の街である神田と片手でかき込めるカレーライスの親和性が見えていたのだろうか。
最後に余談だが、カレーライスなのかライスカレーなのか、という問題を耳にする事がある。ライスカレーはライスが主でカレーが従、カレーライスはカレーが主でライスが従である。今の日本を見渡せば〇〇ライスは数あれど、ライス〇〇は殆ど見当たらない。それは現代社会におけるライスの権威の失墜を意味するのだろうか。私はそうは考えない。コメ食文化の日本人にとって、ライスは当たり前の大前提なのだ。問題はそのライスを何で食べるか、なのである。
試しに、あなたが大好きな料理の名前にライスをつけてみればどうだろう。ステーキでもハンバーグでも何でも良い。それは、たちまちあなたにとって魅力的な言葉に変わるのではないだろうか。
撮影/伊藤 信 構成/吉田 志帆