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立ち呑み屋店主 『食』を読む。〜六食目〜

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

立ち呑み屋店主 『食』を読む。〜六食目〜

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

六食目

『酒場のたしなみ』吉行淳之介(有楽出版社)

歳をとって思うのは、酒も食事も適量が良いということ。

休みの日、昼にラーメンと餃子にビールを大瓶で一本ほど飲んで、家に帰ると寝てしまう。夕方ころ起きてみると、もういけない。昼に食べたものが全く消化されず、そのまま胃袋に居座っており、夕食を満足に楽しむことも出来なくなる。酒に至っては、深酒をすると、宿酔いにはならないものの、翌日起きてからやっと身体がアルコールを分解し始める始末である。
以前、街の古い飲み屋で、粕汁の具をつまみに熱燗を一合、最後に残った汁を飲み干して帰っていった老女を見た事がある。酒飲みの真髄ここに見たりと思った反面、自分にあのような潔い飲み方が出来るものだろうかとも思ったものだ。

前置きが長くなったが、今回紹介する『酒場のたしなみ』は、芥川賞作家であった吉行淳之介が青年期からの凡そ30年にわたる自らの酒と酒席にまつわる思い出を綴ったエッセイをまとめたもので、それぞれのエッセイが書かれた年代も昭和30年代から50年代と幅広い。
表題の『酒場のたしなみ』は再版される際に改題されたもので、原題は『吉行淳之介定本・酒場の雑談』という。「雑談」の方がしっくりくる内容なので、このタイトルは文壇きってのダンディとされた吉行のイメージからつけられたものであろう。

飲食店における客のあり方については、池波正太郎などがよくその著書の中で触れているが、池波を硬派とすれば吉行のそれは軟派であり、現代風に言えば遊び人、チャラいと言われるタイプである。池波の生年が1923年、吉行淳之介の生年が1924年なので、これは世代の差ではなく人間の性分の違いなのだろう。
しかし、本書で語られる吉行の遊びには、現代のそれとは異なる知性の匂いがする。結局のところ、この知性の匂いこそが粋の正体であり、言動の上品下品、はたまた硬派軟派という事はあまり関係がないようだ。

本書にこんなエピソードがあった。
吉行が銀座のクラブへ顔を出した際、たまたま客は自分一人であった。こういった店では自分一人だけ飲むわけにはいかず、店の女性にも酒を出すのが客の作法だと吉行は言う。しかし客は自分一人だから、店にいる女性に全てに酒を出したら大変な勘定を払うはめになる。
そこで吉行が自分の履いていた靴を脱ぎ、そこへなみなみと酒を注ぎ、「さあ飲みやがれ」と言ったところ、店の女性たちは気分を害するどころか一斉に笑い出し、変に気を使われるよりよっぽど気が楽だと言ったそうだ。

吉行の言動を文章だけで読むと大変に下品なわけだが、店の女性たちにとってはそうではなかったらしい。そこには言葉だけではない何かがあったわけで、それこそが吉行から発せられる知性の匂いであり、また店の女性たちもそれを感じ取るだけの力を持っていたという事なのではと私は考える。
これは、普段から客の作法をわきまえて店の女性たちと接して来た吉行だからこそのエピソードであり、当然上辺だけを真似するとたちまち痛い目にあう事になるだろう。

エッセイのなかで吉行の飲む酒や食べる物、口説く女性は時代とともに変わっていく。終戦直後、場末の酒場で密造のカストリ焼酎やメチル入りの酒を飲んでいた学生時代に始まり、作家として世に出てからは舞台を銀座などに移し、酒を飲み女性を口説くその様はそのまま戦後日本の復興ともリンクする。
とすれば、吉行が語る客の作法も今ではもう昔の話なってしまったのだろう。この、少しくどい知性の匂いが、当時の銀座、ひいては当時の文壇や文壇バーと呼ばれた酒場が持つ空気だったのではないだろうか。

自らの思い出に加えて、吉行は様々な著名人との交流についても触れている。その多くはやはり作家であり、顔ぶれは川端康成、安岡章太郎、渡辺淳一、阿川弘之、野坂昭如、小松左京、筒井康隆、北杜夫、遠藤周作と錚々たるものである。
川端康成に酒場でピシャリと言われた話や、遠藤周作が女性にモテた話、北杜夫の躁鬱の話など、当時の文壇をリアルタイムに生きた人間だからこそ書けるエピソードも数多い。
登場する作家の多くは、現代を生きる我々にとって、もはや歴史上の人物に近く、そういった作家たちが生身の肉体を持ち、どの様な酒をどの様に飲んだのかを知る事は非常に面白く、本の向こうの存在である大作家を身近に感じられる。
作家以外では、タモリ、内田裕也、ジョージ秋山、桃井かおり、篠山紀信などの名前もあり、当時の銀座がどの様な街であったかを推し量る事が出来る。

本書で語られるエピソードは吉行が20代の学生時代から50代の壮年に至るまでの幅があり、エッセイ自体が書かれた年代も20年ほどの開きがある。そういう意味では非常に散漫な内容なのだが、見方を変えれば、これは吉行淳之介の回顧録とも言える。

このような回顧録を読む事で我々は、我々の知らない時代、我々の知らなかった歴史のパズルを埋めてゆくことができ、全体を俯瞰してみる事で、一部ではあるが、現在につながる大きな歴史の流れを知る事が出来る。
意味のない雑談や思い出話が、思いがけないところで、それまでバラバラだった何かを繋いでくれる時、私は本を読む楽しみを痛感するのである。

撮影/伊藤 信  構成/吉田 志帆  撮影協力/BAR STAND