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立ち呑み屋店主 『食』を読む。 〜十八食目〜

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

立ち呑み屋店主 『食』を読む。 〜十八食目〜

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

十八食目

『貧乏サヴァラン』森茉莉著(ちくま文庫)

「文章を書く」ということは大変に恐ろしく、困難で、命を削る思いがする作業である。
私たちは何か伝えたいことがあって文章を書くが、それが何月何日何時に何処そこへ集合といったものなら問題はない。しかし、心のなかの未だ言葉になっていない何かを言葉にするときには、そうはいかない。感情や思いに言葉を与える作業は翻訳に近い。

しかもこれは、どれだけ注意を払っても必ず溢れ落ちるものがある翻訳作業だ。
それゆえ一字一句、本当にこれで良いのかという自問自答を繰り返すことになる。
厄介なのはその翻訳作業が読み手にも求められることで、デジタルの世界ならファイルを圧縮解凍しても中身に変化はないが、文章の場合は書く側が注意を払っていても、最後は読み手の解釈に任せることになる。

だから私は読むときにも「本当に読めているか」という自問自答と共に、「この書き手は本当に書けているのか」という疑念を持つ。
しかしごく稀に、この私のひねくれた読み方を寄せ付けないほど圧倒的な熱量で書かれた文章に出会うこともある。そういった作品の多くは、書けているか否かという技術を越え「判らないのはお前が悪い」と言わんばかりの勢いで迫ってくる。
こういったものを書ける人間というのは、常日頃から自らと向き合っていることで、自分の中の感情や情熱の正体が何であるかを知っている人なのではないかと、私は考える。

今回紹介するエッセイ『貧乏サヴァラン』も私にとっては、そんな本の一冊だ。

著者の森茉莉は昭和から大正期にかけて活躍した文豪、森鴎外の実子であり、50歳を過ぎた頃に発表した鴎外についてのエッセイ集『父の帽子』で広く世間に認められるようになる。
本書では自らを「貧乏なブリア・サヴァラン」(ブリア・サヴァランとは18世期フランスの法律家であり、最も有名な食通の一人)と呼び、なんとか美味しいものを手に入れ、またそれをなんとか美味しく食べようとする日々を、自らの生活や精神世界を交えて書いている。

森は決して情報を追いかけないし、情報に迎合することもしない。
良し悪しの判断基準は彼女の内だけに存在し、外にはない。これは実は大変なことである。
周りの皆が良いというモノを良いと言い、美味いというモノを美味いと言えば楽だし安心だ。

だが、森はそれをせず、自分が良いと思うモノだけを良いと言う。
そして、それを文章にすることは、裸の自分をその文章を読む全ての、会ったことのない、どこの誰かも判らない人々の前にさらけ出すことに等しい。
それでも彼女が怯むことなくそう出来たのは、森自身、自分が何者であるかを知っていたからに違いない。

自らも本書でも述べているように、森には生活能力がほとんどなく、料理をのぞく家事の全てが苦手であり、森の住まいが足の踏み場もないほど散らかっていたことは有名であった。
作家の室生犀星は彼女の家の散らかり様が気になり夜も眠れなかったと言い、タレントの黒柳徹子は自身のInstagramで「ドラマで、もし、あの部屋を再現するとしたら、どのくらいの新聞紙と雑誌と紙屑が必要だろうか?」と考えたと振り返っている。

この森の性分は生まれつきのものに加え、その生い立ちによる部分も大きい。
父親である鴎外は(森曰く)裕福ではなかったものの、小説家であり陸軍の軍医総監(階級でいうと中尉相当。軍医官のなかでは最高位にあたる)であったこともあり、森は幼いころから本物に囲まれて育っている。

その一方で、「小学校に上がってからも「おいも」「卵」「ごはん」と、命令を下して食べさせて貰っていた」と振り返り、髪を櫛で揃えるのも結婚間際になって練習したと自身が語るように、森は箱入り娘が「娘のまま大きくなった」ような人物である。
彼女の美意識はそのような人生を通し自然と形作られた物ゆえ、雑誌やラジオから流れてくる流行りには目もくれず、誰の顔色を伺うこともなく、自身が良いと思うものを良い、悪いと思うものを悪いと、時に辛辣な言葉を交えハッキリと書く。
このエッセイには、そんな彼女の美学がページの隅々にまで満ちている。

電気冷蔵庫を「あの白くて大きく、つるつるした、よその家や、店で一寸見るのも不愉快な化け物」と言い、ビスケットに絶対必要な条件を八つも挙げ、「亜米利加製のチョイスなぞは論外」と断言し、美味いヒラメの刺身を買うために雨の中ぴしゃぴしゃと魚屋をはしごする(森はゴム長靴を上手に履くことが出来なかったため、雨の日はサンダル履きで出かけていた)。

食事に使う箸は「一膳十円の、黒塗りのとり箸が一番上等の感じがあって好き」で「七十円もする女箸は、螺鈿の出来そこないかなんかで、田舎大尽の奥様用の箸のようで〜手にとる気もしない」と言い、そうして苦心惨憺の末に用意したヒラメの刺身を自分の思うように皿に盛り付け、お気に入りの箸で「摘み上げて口に運ぶのは天国」であり「艱難(かんなん)辛苦の大団円」となる。

二度の離婚の末、父の印税収入も絶えてしまったあとの森の人生は裕福ではなかったかもしれない。しかし彼女は、胸をはって自らを貧乏な「サヴァラン」だと言い、そこに一切の自嘲は感じられない。
彼女は自分にとっての豊かさや贅沢が何であるかを知っていたのだ。

家事の大半はてんでダメでも、自他共に認める料理の腕前を存分に発揮し、縦横無尽に美味いものを作り味わう。森の記したレシピの幾つかを例に挙げると、

○枝豆ハム入りご飯
枝豆を塩少量を入れて青く茹で、ハムを細く切り、炊き上がったご飯に混ぜる。

○トマトスープ
にんじん、玉ねぎ、じゃがいもをバタでいため、トマトとご飯をすこし入れ、水から弱火にかけてよく煮て裏ごしする。

○牛肉卵衣焼きのおろし添え
牛肉(一人分二十匁)に塩、コショウをして暫くおき、卵をからめてバタで焼く。
大根おろしにコショウか粉山ショウを混ぜ醤油をかける。

という具合に、明日にでも「ひとつ試してみようか」という気にさせるものばかりだが、その中でも極め付けはコロッケの食べ方だ。

○コロッケ
買ったコロッケに良質のバタを塗って網で一寸焼く。

目から鱗が落ちるとはこのことで、出来合いのコロッケであっても、そのまま口に入れることはせず、「良質のバタ」を塗って「一寸焼く」という。
私はこれを読んだとき「そんなの美味いに決まってる」と心の中で叫んだ。

森の目は、ただ純粋に、良いか悪いかというその本質だけを見ている。残念ながら、私が彼女のような孤高の精神に及ぶことは一生ないだろう。それは森茉莉という人間が、森茉莉の人生を生きて初めて得られるものなのだから。
それでも彼女が残した文章のおこぼれに預かり、美味いものに有り付けるのはありがたいことだ。

森茉莉はまさに、貧乏な「サヴァラン」その人である。
これが誉め言葉であることを「書けない」自分を、今は恥入るばかりだ。

写真/伊藤 信  企画・編集/吉田 志帆