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【対談】絵本と食べ物と愛をめぐるおはなし『かいじゅうたちのいるところ』

生駒 幸子

龍谷大学短期大学部准教授、博士(人間科学)

【対談】絵本と食べ物と愛をめぐるおはなし『かいじゅうたちのいるところ』

生駒 幸子

龍谷大学短期大学部准教授、博士(人間科学)

龍谷大学短期大学部こども教育学科准教授の生駒幸子先生に、「絵本と食べ物」をテーマにおはなしを伺う連載企画。今回は、その特別編です。生理心理学研究がご専門のこども教育学科の藤原直仁教授と、絵本と食べ物について語り合っていただきます。
今回取り上げる絵本は『かいじゅうたちのいるところ』です。

<書籍データ>初版1975年
かいじゅうたちのいるところ
作:モーリス・センダック
訳:神宮輝夫
出版社:冨山房

<あらすじ>
白いオオカミのぬいぐるみを着て大あばれのマックス。おかあさんに叱られ、夕ごはん抜きで寝室に放り込まれることに。すると、寝室の辺りに木がどんどん生えていつの間にか森や野原に様変わり。浜辺から船に乗ったマックスは1年と1日の航海ののち、かいじゅうたちのいるところへ向かい、やがてかいじゅうたちの王様となりますが…。

解釈の違う2つの翻訳本

生駒:実は私たちが慣れ親しんでいる神宮輝夫氏の翻訳とは異なるそれ以前に訳された別のバージョンが存在しています。こちらは『いるいる おばけが すんでいる』というタイトルでウエザヒル出版社のもので、神宮氏の訳とはまるで異なり、韻を踏むようなリズミカルな訳文が特徴です。

藤原:『いるいる おばけが すんでいる』は生駒先生に教えていただいて初めて知りました。本当に翻訳が違いますよね。ここで注目したいのが、原作の”wild things”をどのように訳すかなんですが、直訳すると「野生のもの」となって子どもたちにはピンときません。そこで、翻訳者はそれぞれ”wild things”に当てはまる日本語を選びます。ウエザヒルの翻訳では「おばけ」、神宮氏は「かいじゅう」と訳しています。今回原文を読んだ感想として、私にはどちらもしっくりきませんでした。でもそれは仕方のないことで、たとえば味わいを表現する「まったり」という日本語を一言で英語に訳すのが難しいように、ぴったりくる翻訳が見つからないことは少なくないと思います。ちなみに今回この『かいじゅうたちのいるところ』に出てくる”wild things”とはおばけでもかいじゅうでもなく、子ども自身のことなのかなと感じました。子どもって大人が思いもしない行動をとったりして、本当に野生的。” wild things”そのものですよね。

生駒:「かいじゅう」という翻訳に対しての批判もあったようですが、神宮氏の訳は子どもの心の動きを受け止めた上で翻訳しているから、シンプルで的を射ています。センダックが言いたかったことを丁寧に日本語に訳している印象です。

藤原:読み手が子どもだという前提もあるから、大人の文学作品を執筆するのとは違いますよね。このセンダックの絵にしても、大人がみると不気味な絵だなと感じる人も少なからずいるかもしれませんが、子どもは全く違う受け止め方をするでしょうね。

生駒:多くの児童文学作家が自分のなかに子どもの部分が残っていて、子どものときの日々を鮮明に覚えているという話をよく聞きます。センダックも自分のなかにいる子どもと会話しながら描いたのかもしれません。だから子どもにダイレクトに伝わるのではないでしょうか。この『かいじゅうたちのいるところ』も出版当初は大人からの評判が悪い絵本でしたが、子どもたちから人気を集め、長く読み継がれる絵本となりました。

藤原:大人は過去の記憶に照らし合わせるからこの絵を見ておどろおどろしい絵だと感じてしまう人もいますが、子どもは新鮮な気持ちで絵と向き合うのでしょう。

「食べる」をキーワードに読み解く

生駒:今回、あらためて『かいじゅうたちのいるところ』を読んで気づいたのですが、主人公のマックスがフォークを片手に飼い犬を追いかけたり、お母さんに夕ご飯抜きで寝室に追いやられたり、かいじゅうたちが「食べちゃいたいほどおまえが好き」とマックスに言ったり…。とにかく「食べる」ことがキーワードになっているなと感じました。これを私なりに解釈すると、「食べる」という表現には愛情のいろいろな側面があらわされている気がするのですが、愛情と食とは何か関連があるのでしょうか。

藤原:心理学でも「食」をテーマとした研究は多く、私も関心のある分野です。
心理学では、一般的に「食」に関わる欲求は「飢え」など生命維持に必要な一次的欲求(生理的欲求)に分類され、それが満たされることで二次的欲求(社会的欲求)に移行すると説明しますが、「科学的でわかりやすい説明ではあるが現実的ではない」と考える心理学者も多くいます。
実際、自分の食事を子どもに分け与えることって違和感のないことですよね。食は人間には欠かせない大事な要素ですが、この大事なものを子どもに与えたいというのは愛情だと思います。私も子どもが生まれて実感できるようになったのですが、たとえば自分の子どもが臓器を移植しなければ助からない病気になったら、ためらうことなく臓器を提供しようとするでしょう。それと同じで、子どものためなら一次的欲求に関係なく食べ物を分け与えようとすると思います。その意味でも、この『かいじゅうたちのいるところ』には、「あたたかい」ご飯を用意するところに、母親の愛情を感じるのです。マックスが1年と1日かけて旅に出ている間、母親も「ちょっと怒りすぎたかな」とクールダウンをしているのが読み取れます。テーブルにケーキが並んでいるのは、母親からのサービスなのかな。これは生駒先生の受け売りですが(笑)。

生駒:藤原先生は、浮かないマックスの表情には母親の気持ちも投影されているのではないかとおっしゃっていましたね。

藤原:マックスが見た夢の中に登場する”wild things”(かいじゅう)は、実はマックスのことで、夢の中のマックスは母親のことじゃないかと感じました。それも役割が固定されているわけではなく、ある場面ではマックス本人に戻ったり、また”wild things”になったり。夢の中でそんな行き来をしているように思えます。

生駒:この絵本を語る際、「かいじゅう」とはいったい何の象徴なのかという話になるのですが、先生は、どうお感じになられましたか。

藤原:私は、単純に「かいじゅう」こそマックスのことだと感じました。子どもは本当に野生的で大人が考えもつかない行動を起こす。でも時に、大人がぐうの音も出ない程の本質を突く発言や行動をする。

生駒:なるほど。読む人によっていろいろな解釈がありますね。多様な「読み」が生まれるところが、この『かいじゅうたちのいるところ』の魅力ですね。

藤原:絵本作家は、自分の作品がいろいろな読み方をされることを期待されているのですか。

生駒:絵本作家にとってうれしいことだと思います。一通りにしか読めない本はやっぱりすぐに廃れてしまうような気がします。複雑さをはらみ、謎を秘めた絵本だからこそ、時代を超えて読み継がれるのではないでしょうか。今回は藤原先生にお話を伺いましたが、また別の方にお話を聞くと違った「読み」をされているでしょう。そのような多様な読みを許しているのが、この作品が長く愛される大きな理由なのだと感じています。

「ほかほかとあたたかいご飯」を用意する親の愛情

藤原:そういう意味では、マックスが1年と1日の航海から帰ってきたとき、つまり夢から覚めたときの表情はとても穏やかですよね。このシーンだけマックスはフードを脱いでいて、”wild things”から子どもの表情に戻っています。

生駒:ほかにも、この絵本では場面ごとに月の形が違うのですが、窓の外に描かれている満月にも何らかの意味があるように感じます。この満月は「穏やかさ」や「円満」でしょうか。また先生もご指摘くださいましたが、あたたかいご飯がテーブルに並んでいる絵からは、マックスが起きてくる時間を見計らって母親が準備をしたということがわかります。

藤原:でもそれって大変なことですよね。子どもがそろそろ起きてきそうなタイミングを感じながらご飯の準備をして、自分は子どもの前から姿を消す。タイミングを外すとご飯が冷めてしまいますし。「あの子、そろそろ起きてくる頃だわ」という感覚は、母親でないとわからない。

生駒:毎日、一緒に生活しているからこそわかるのでしょう。

藤原:空気感、気配のようなもの。

生駒:それと、時間の感覚もそうですね。

藤原:わかる人にはわかるのかもしれませんね。でも気配を常に感じていなければいけないから、大変ですよね。だからこそ、母親の深い愛情が伝わりますね。

 

【今回の対談者】
藤原 直仁(ふじわら・なおひと)
龍谷大学短期大学部こども教育学科教授

京都府出身。1998年に龍谷大学とのご縁をいただき、2011年度から現職。「食」については研究テーマとしてよりも、日常生活における「食」への関心が高い。医学博士。