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考古植物学者に聞く、人類最古の栽培植物「麦」の歴史

丹野 研一

龍谷大学文学部准教授(教養生物学担当)

考古植物学者に聞く、人類最古の栽培植物「麦」の歴史

丹野 研一

龍谷大学文学部准教授(教養生物学担当)

人類最古の作物と呼ばれ、私たちの生活になくてはならない麦。いったいどのような歴史をたどって世界中に広まったのでしょうか。考古植物学の観点から、麦の歴史についてお話したいと思います。

考古植物学とは…

その前に、私が研究に携わる考古植物学について、簡単にご紹介したいと思います。考古学といえば、遺跡から出土した土器や石器を通じて、当時の文化を調べる学問です。しかしそれだけでは、当時の人々の暮らしをより具体的に解明することはできません。私は、人類史のターニングポイントといわれる「農耕のはじまり」を明らかにしようと、西アジア各地にある考古遺跡での発掘調査に参加して、そこから出土した炭化種子や炭化材を顕微鏡で見て、種類の同定を行ってきました。すると、当時の人々の生活というものが、よりつまびらかになりました。このように、遺跡から出土した食べ物や道具などを調べ、昔の人の生活を明らかにするのが考古植物学の役割です。

麦はいつから育てられていたのか

麦(大麦・小麦)は、人類最古の栽培植物のひとつです。1万1000年位前に、西アジアで栽培されていたことがわかっています。とはいえ、小麦に限れば、現代育てられているものと品種が異なります。現在、私たちがパンや麺にして食べる小麦(パン小麦)は後になって誕生していますが、いつ頃生まれたかはまだ特定されていません。

西アジア一帯は、西に地中海、東に砂漠があり、グラデーションのように降水量の幅があります。西だと年間1000mm、東だと年間50mmくらいです。また、3000m級の山々が連なるレバノン山脈や標高0m地帯に加え、海より低いマイナス400mの地溝帯も存在しています。これだけたくさんの地形に加え、南北の温度差もかなりあることから、多様な植物が生育し、人間が栽培できる植物を選べたということがいえます。

少し話がそれますが、海外ではポピュラーなレンズ豆も人類最古の作物のひとつです。マメ科の植物約20,000種のうち9割にはなんらかの毒性がありますが、レンズ豆はほとんどといっていいほど毒性を持っていません。そのため、アク抜きする必要もなく、現地では赤ちゃんの離乳食にも使われています。それだけ多様な植物が育つ環境のなかで、麦も育てられるようになりました。

麦は当初どのように食べられていたのでしょうか。イスラエルのオハローⅡ遺跡では、消失家屋が発見され、小麦の野生種やすり石、暖炉の原型のようなものが発掘されています。以前、ワインの起源でもご紹介しましたが、焼失家屋というものは当時の瞬間がパックされた状態で残っているわけです。オハローⅡ遺跡も、火事が原因で消失家屋となった遺跡が水没し、干ばつがあった年に湖の水が干上がることで、遺跡が忽然と現れました。考古学者にとって、過去からの最高の贈り物だといえます。
小麦の野生種をすり石ですりつぶし、暖炉をオーブンのようにしたらパンのようなものができますよね。パンの起源は、1万4000年程前のヨルダンといわれていますから、当時から麦は製粉して食していたことがわかります。

麦の伝播ルートと四大文明

西アジアで耕作が始まった麦は、様々なルートで世界中に広まっていきました。主だったものだけでも挙げていくと…、
・トルコから地中海沿いに広まったルート
・トルコ、ブルガリアからドイツへのルート
・トランスコーカサスからロシアに向かったルート
・トルコ・シリア国境辺りからイラン、シルクロードへ向かうルート
・シルクロードから南に向かってインドへ向かうルート
と、たくさんあります。

世界四大文明で最も古いのがメソポタミア文明です。このメソポタミア文明が他の地域に広がっており、メソポタミアと呼ばれる前の西アジアから麦がエジプトやインダスへと伝播していることと、面白いことに対応しています。中国の黄河文明も畑作文明なので、ひょっとしたら対応しているかもしれません。

世界の広範囲に伝わっていったのは、大麦でした。大麦は小麦に比べて環境に強い性質があり、乾燥地帯でも生育期間に300mmほど雨が降る場所であれば育ちます。また、標高の高い所や暑さ・寒さでも生育するのが大麦です。
小麦の場合、古代小麦のエンマ-小麦が広域に広まりました。このエンマ-小麦は、外皮を取り除くのが難しい性質がありますが、突然変異で外皮が外れやすい品種が生まれました。これが、現在パスタなどの原料となるデュラム小麦です。

日本における小麦の歴史

日本で麦が栽培されるようになったのは、縄文時代晩期から弥生時代にかけて。まず大麦が稲作とともに入ってきたようです。とはいえ、まだほとんど出土していません。古墳時代に入ると大麦や小麦の炭化物が馬の骨と一緒に出てきました。おそらく、馬の飼料として使われてきたのでしょう。
奈良時代に入ると、農民に「麦は青いうちに刈ってはいけない」というお触れが出ていました。米より早い季節に収穫できる麦は、貴重な食料源だと考えられていたようです。また、「『青草をくれ』と金持ちが来ても売るな」という高札も掲げられました。ここでいう「青草」とは麦のことで、馬を持った豪族が結構なお金を用意して買いに来ていたと思われます。この高札を読み解くと、古墳時代は馬の飼料だった麦が、奈良時代に入ると人も食べていたことがわかります。

ちなみに、この時代、日本人は麦をどのように食していたかはまだ解明されていませんが、ひとつ挙げるとすれば「索餅(さくべい)」という食べ方をしていたと考えられています。索餅は小麦粉と米粉を練り合わせて縄状に伸ばしたもので、奈良時代に中国から伝わった唐菓子が原型だといわれ、長崎県の郷土菓子「麻花兒(マファール)」に形が類似しています。この索餅は、素麺の元となったといわれています。
他には、ゆでた麦を米と混ぜて麦飯にして食べたと考えられています。

食文化という側面だけでなく、解明されていない当時の暮らしぶりを知る上で欠かすことができない麦の歴史。知れば知るほど奥が深いです。