絵本には、子どもたちが大好きな食べ物がたくさん登場します。一度食べてみたいと幼心に感じた人も多いのではないでしょうか。絵本研究者で龍谷大学短期大学部こども教育学科の准教授を務める生駒幸子先生に、絵本と食べ物の切っても切れない関係を語っていただきます。
<書籍データ>
おおきな木
作・絵: シェル・シルヴァスタイン
訳:本田錦一郎
出版社:篠崎書林
出版年:1976年
訳:村上春樹
出版社:あすなろ書房
出版年:2010年
<あらすじ>
少年のそばには、いつも大きなりんごの木がいました。木は少年に惜しみない愛を与え続けます。何度でも読み返したい、シルヴァスタインのロングセラー絵本です。
1964年から半世紀経っても読み継がれる、ロングセラー絵本です。原書のタイトルは“The Giving Tree”。直訳すると「与える木」。りんごや葉っぱ、枝に幹……。この絵本の主役の木は、少年に自分が持っているものを何もかも与え続けます。決して読後感が爽快なものではありませんが、この不可解さ=モヤモヤ感が読み継がれる理由かもしれません。
国内では、1976年に本田錦一郎によって翻訳されました。しかし出版の継続が難しくなったらしく、2010年に村上春樹が新たに翻訳したものがあすなろ書房より出版されています。つまり『おおきな木』には2つの翻訳があるのです。
この2つの翻訳を読み比べると大きな違いがあります。本田訳は表現に躍動感があり、村上訳は原書により忠実な訳です。
具体的な違いを挙げてみましょう。本田訳では、”the boy”を、少年が幼い時期には「ちびっこ」、青年・成人・老年になると「おとこ」と訳しています。一方、村上訳では”the boy”を、年齢を重ねても「少年」と訳しています。原書に照らし合わせると、シルヴァスタインは絵本の終盤まで”the boy”と書いていますね。原書を読む限り、シルヴァスタインは子ども目線ではなく大人から見た子どもとしてこの絵本を描いたように見受けました。村上もまた、彼の子どもを「一人の個人」として対峙する姿勢を尊重して「少年」と翻訳したのではないでしょうか。本田訳の躍動感も魅力的ですが、私個人は、読者に読み方を委ねる村上訳に共感を得ます。
2つの訳の違いでもう1つ大きな違いがあるのが、“happy”の解釈です。本田訳では「楽しく」と翻訳し、村上訳では「幸せ」と訳しています。物語の文脈などからも、この「楽しい」と「幸せ」には意味として隔たりがあると思います。
この絵本に登場する「りんご」は、ギリシャ神話や聖書に出てくることからも象徴的な意味を帯びています。少年が幼い頃は「食べるもの」として、少年が大人になってからは「売ってお金に換えるもの」として。村上春樹は「訳者のあとがき」で、木は原文では「She」=「彼女」、つまり女性だから、絵本を通じて女性の言葉として翻訳したと述べています。
『おおきな木』は、アメリカで1964年に出版され、以来、多くの人に読まれています。物語に登場する木を「イエス・キリスト」と称賛する人がいれば、「自己犠牲の(過剰な)賛美」「少年は搾取の象徴」という批判をする人もいるようです。愛する人に尽くし続ける虚しさや哀しさを読み取る人もいます。
国内では、1976年に出版されて以来、母親の子育て観の調査で使用されたり、道徳の授業の教材にも使われたりしています。
私の大学院の先輩で、多文化教育を研究する植田都先生が、興味深い調査をしています。この『おおきな木』を、子育てをする日本人及び日本在住の外国人(アメリカ・オーストラリア・ノルウェー)の母親に読んでもらい、その感想を比較するものです。日本人の母親は、この絵本に親子関係をイメージする方が多く、一方、外国人の母親は親子関係ではなく自然や友情をイメージしたそうです(植田、1996)。
親子関係や自然、友情に限らず、人はこの絵本を通じて、愛や人生、神と人間など、さまざまなものを想起させるようです。生まれ育った環境のなかで身につけた価値観や母親の年齢、信仰などが大きく作用して、それが絵本の解釈に影響することを興味深く知りました。
村上春樹も、あとがきのなかでこのように述べています。「あなたがこの物語の中に何を感じるかは、もちろんあなたの自由です。それをあえて言葉にする必要はありません。そのために物語というものがあるのです。物語は人の心を映す自然の鏡のようなものなのです。」と。
モヤモヤとした読後感が残るのは、この絵本が問いを投げかけて、決して答えを示してくれないから。すぐれた芸術作品(絵本)は問いを提示するだけで答えは明示しません。解釈は読み手に委ねられます。なにか重たい命題をふわりと投げかける点において、この絵本は大成功している作品だといえるかもしれません。
この絵本は、愛の「与える」側面、または母性というキーワードで語られる場面が多々あります。実は、私は長い間、この絵本を果たして「母性」だけで解釈してよいのか、わかりませんでした。今振り返ると、私自身がこの木に自分自身を投影していたからだと思います。
自分が女性であり、かつ母親であるということも関係しているかもしれませんが、自分にはとてもこの木のような行動はマネできないという息苦しさを感じていたように思います。しかし今回、この連載で『おおきな木』を取り上げるにあたり読み返したとき、少年に自分を投影すると、まさしく自分はこのような存在なのだとハッとさせられたのです。いつも充分に与えられているのに、もっともっと欲しがる身勝手な姿……。これこそまさに自分自身のことだ。年齢を重ねることで、若いころの自分にはわからなかった、神と自分との関係性を見いだすことができました。
私のように、ひとりの人が人生のどの時期に読むかによっても、感じ方が変化する。そんな不思議な絵本です。
<参考文献>
『「おおきな木」の贈りもの : シェル・シルヴァスタイン(名作を生んだ作家の伝記シリーズ ; 9)』マイケル・グレイ・ボーガン 著 水谷阿紀子 訳 文溪堂 2010年
『子どもとファンタジー:絵本による子どもの自己の発見』守屋慶子 新曜社 1994年
『絵本「おおきな木」に見られる日本人母親の子育て観』植田都 聖和大学論集. A教育学系 24 論集編集委員会編 1996年