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京都“ロングセラー”グルメの旅⑦ 京都が誇る秋の味覚「丹波くり」の話

津曲 克彦

ライター

京都“ロングセラー”グルメの旅⑦ 京都が誇る秋の味覚「丹波くり」の話

津曲 克彦

ライター

秋の到来と共に京都の食卓に登場するのが「丹波くり」。丹波には松茸や黒枝豆など高級食材がありますが、丹波くりも負けず劣らず珍重される食材です。大粒のゆでたてほくほくの栗を頬張れば、まろやかな甘味に思わず笑みがこぼれます。今回はそんな丹波くりの話。

“豊穣”の丹波。その名前の由来とは?

丹波地方(京都府亀岡市)

丹波くりの産地である丹波地方は現在の京都府と兵庫県、大阪府の一部にまたがるエリアで、一般的には「京都丹波」「兵庫丹波」と呼ばれています。丹波の名前の由来はさまざまあり、『古事記』『日本書紀』には丹波・丹波・旦波・但波・丹婆・谿羽などの文字が当てられています。江戸時代後期の国学者・斎藤彦麻呂がまとめた『諸国名義考』には、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井(現:元伊勢籠神社)にあり、皇大神宮(内宮)の食事の稲を作った広く平らな場所でした。昔の米といえば赤米のこと。赤い米が実った稲穂が風にそよいで赤(丹)の波のように見える、そんな素敵な光景が見えたのでしょう。斎藤彦麻呂は丹波の読み名を「田庭なるべし」と記しています。

そんな丹波は、寒暖差の激しい気候と肥沃な大地があり、松茸や黒豆、山の芋、お米など、多彩な農産物があり、京阪神を中心に出荷。丹波くりもその代表として知られています。

丹波くりが盛んに栽培された理由

三内丸山遺跡(青森県青森市)

日本で栗の栽培が始まったのは、なんと今から5500年以上前の縄文時代。三内丸山遺跡には、当時の人々が集落の周りに栗の木を植林し、安定的な食材として確保されてたそうです。『古事記』にも栗について記載され、奈良時代から平安時代にかけて、栗は貴族の食べ物として、最も珍重され、献上品や物納品としての栗の栽培が盛んになりました。
丹波で栗づくりが発展したのは、都がある京都に近かったこと、天領や寺社領地も多かったこと、それに貴族や寺院とのつながりが深かったことが挙げられます。平安時代に編さんされた『延喜式』には、丹波の栗に関する記載があり、また11世紀中頃に著された『新猿楽記』にも「世に丹波栗と云い」から始まる、丹波くりに関する記載が残っています。

たわわに実がなった栗の木

13世紀の初期には、栗の繁殖のための接ぎ木が行われるようになりました。この技術は、宮廷の庭園など限られた場所でしか使用を許されませんでしたが、貴族とのつながりが深い丹波では、早期からこの技術が用いられ、現在の丹波くりのような大粒の栗へと改良された歴史があります。

丹波くりが全国的に知名度を高めたのは、江戸時代の頃。尼崎の魚商人が丹波へ行商に赴いた際に丹波くりを持ち帰り、京阪神で「丹波くりー丹波くりー」と言いながら売り歩いたそうです。その光景を目にした参勤交代の武士たちが栗を購入し、全国に広めたといわれています。江戸時代の俳諧書『毛吹草』(1645)には、丹波くりの中で最も古い品種である「テテウチ栗」のことが書かれており、本草書『本朝食鑑』には、「丹波山中にあるものを上とす。その大なること鶏卵大の如し。諸州これを種う、状、相似たりといえども 丹の産に及ばず」と、丹波くりを高く評価する記述が残っています。

丹波くりはなぜ美味しい??

丹波くりの美味しさの理由は、栗が生育する気候にあるといわれています。たとえば、栗の栽培が盛んな由良川とその支流は寒暖差が激しく、また明け方に広がる霧で気温がぐんと下がるため、栗の甘さに良い影響を及ぼします。夜の気温が低くなると、栗の木の呼吸による糖分の消耗が抑えられることとなり、その結果、果実に糖分が蓄積されることにつながるのだそう。ねっとりとした、甘く香しい丹波くりには、丹波ならではの環境が欠かせないのです。この栗を使った料理や和菓子が、京都の街中でも食べられます。なかでも栗の和菓子は秋を代表する味覚。大ぶりの栗がようかんのような和菓子からはずれて落ちたりしないよう、職人の巧みな技が随所に生かされているのです。

栗ごはん(出典:農林水産省「うちの郷土料理」)

丹波くりが出回る秋口になると、地元では栗ごはんを作って秋の味覚を楽しみます。粘着性のある栗の甘味と新米の甘味が口の中で絶妙に絡み合う美味しさは、まさに美味。栗は鮮度が短いため、生の栗で作る栗ごはんは、秋ならではのごちそうです。丹波では、道の駅やスーパーマーケットなどでもホクホクの丹波くりが販売されています。ぜひ購入して、秋の味覚に舌鼓を打ってみてはいかがでしょうか。