「よく食べる麺料理は?」と聞かれたら、
関東=そば。
関西=うどん。
と、イメージする人は少なくないでしょう。実は京都には、寛正6年(1465)に創業した本家尾張屋をはじめ、老舗の蕎麦店が点在。独自の蕎麦文化が発達しているのをご存じですか。今回は、京都で蕎麦が食べられるようになった理由。そして、京都ならではの蕎麦菓子についてのお話です。
※穀物としてのそばは「ソバ」、麺料理・その他料理としてのそばは「蕎麦」と記載。
ソバの起源は、中国の雲南省からヒマラヤにかけてと推定されており、紀元前4~5千年頃には栽培されていました。日本にも縄文時代に渡っており、各地でソバの種子や花粉が出土しています。
日本でソバが文献に登場するのは奈良時代。『続日本紀』に、養老六年、元正天皇が飢饉対策にソバの栽培を命じたことが記されています。ソバは生命力が強く、肥沃でない土地でも育ちやすいことから年貢としても注目が集まりました。とはいえ、当時は、今のように麺料理として食べられたという記述はなく、粒のまま粥にして食べていたようです。
日本における蕎麦料理には、鎌倉時代には食べられていたといわれる蕎麦がきがあります。蕎麦店では一般的なメニューですが、地域によってはなじみがないという人もいるかもしれません。ちなみに、麺料理としての蕎麦のことを「蕎麦切り」といい、こちらは諸説ありますが、江戸時代に確立されたといわれています。
先ほど記したように、蕎麦は生命力が強く育成しやすかったのですが、その高い栄養素に注目をしたのが寺院です。
修行中の僧侶は、五穀(稲・麦・粟・きび・豆)を断たなければならず、また、火食や肉食もしてはいけませんでした。そこで、五穀に含まれず、かつ火を通さなくても食べられる蕎麦を重宝したそうです。現在でも、精進料理店のなかには、蕎麦を献立に取り入れているところもあります。
京都の寺院でも蕎麦は食材として珍重され、江戸時代には寺院の食文化に深く根付いていました。特に禅宗では、心身を健全に養う食べ物として、瞑想や修行をする際に蕎麦粉を携えたそうです。当初は寺院で製粉や製麺を行っていましたが、やがてその役割を担うのが、菓子店に変わることとなります。
独特の華麗な世界観を持つ上生菓子など、歴史とともに洗練されてきた京都の和菓子。献上菓子として宮中や公家の他、寺院からの注文にも応えてきました。
京菓子は、粉を混ぜたり伸ばしたり、切ったりしますが、この工程が、蕎麦切りと共通する点が多く、寺院からの依頼で和菓子職人が蕎麦打ちをするようになったといわれています。
京都で一番古い歴史のある本家尾張屋も、元々は菓子店として創業した歴史があり、御所や寺院から蕎麦の注文をたくさんもらううちに、蕎麦店を開業。御所に出入りする「御用蕎麦司」となった歴史があります。
ちなみにこの本家尾張屋には、江戸時代末期に十三代目当主が考案した「そば餅」をはじめ、十四代目当主考案の「蕎麦板」(蕎麦の麺打ちをするような技法で作られた蕎麦菓子)、十五代目考案のそば焙煎わらび餅、蕎麦ぼうる、十六代目当主が考案した蕎麦かりんとう…と、当主が自ら蕎麦菓子を作る伝統があります。
蕎麦を使ったお菓子といえば、蕎麦ぼうろを思い出す人も多いのではないでしょうか。この蕎麦ぼうろも、実は京都生まれ。ぼうろ(ボーロ)は、1570年頃にポルトガル人によって伝えられた南蛮菓子のひとつ。当時は、小麦粉に砂糖を加え、練って焼いたものだったそうですが、京都に根付くとともに蕎麦粉と卵を加え、和菓子としての進化を果たしました。
寺院が多いこの街ならではの理由で、独自の発展をした京都の蕎麦文化。蕎麦切りに携わるようになった和菓子職人との出合いによって、蕎麦餅や蕎麦ぼうろなど、京都のロングセラーグルメの誕生につながりました。京都を訪れる機会があれば、ぜひ、美味しい京都のお蕎麦と蕎麦菓子も食べてみてください。