寒くなるとブリを思い出す。寒ブリは関西ではお正月の華だ。醤油をはじくほど脂がのったブリの刺身に私は興奮する。寒ブリに限らず、冬はうまい魚が多い。海が寒いほど脂がのって身が締まる。魚のうまさというのは日本人の得意分野であるが、なかなか単純ではない。
刺身の魚のおいしさの要素として、うま味成分の濃度がしばしば話題になる。魚の死後には、時間とともに細胞内の核酸が分解されて生じたイノシン酸と、タンパク質やペプチドが分解されて生じたグルタミン酸が増える。イノシン酸やグルタミン酸などのうま味成分が、魚の絶命後何時間で最高レベルに達するかという研究もある。ヒラメや鯛など白身で淡白な味の魚は、少し熟してうま味が増えるのを待つほうがおいしいという。
鮮度とうま味は絶妙な関係にある。さっきまで生きていましたというほどの鮮度が重要な魚もあるが、新鮮すぎるとうま味に欠ける魚もある。鮮度を重視するかうま味を期待するかによって食べ頃のタイミングは同じではない場合もある。さらには、いけすの中で魚がハッピーな状態で生きていないと、いくら新鮮でも旨くないと主張する人もいる。生きていたときのストレスは魚の味を落とすらしい。
うま味や鮮度の他に、脂の乗り具合もおいしさを左右する。一般的には脂の乗りが魚のおいしさを増す。餌をよく食べて成熟すると体脂肪が増すのは魚も人間も同じらしい。さらに、低い水温では、低音でも柔らかい脂を作る不飽和の脂肪酸が増えて味わいがよくなることもあるかも知れない。
同じ脂でも豚肉や牛肉と魚を比べると味わいがずいぶん違う。食品の中の脂の大半を占める中性脂肪だけを比べても成分に大きな違いがあるとは思えない。肉類の脂の味わいの違いは、主に脂肪に溶け込んでいる雑多な低分子成分の違いによるものである。短鎖長の脂肪酸類、アルデヒド類を初めとする低分子成分など風味に影響を与える物質は多い。
マグロのトロと寒ブリの脂、あるいは北欧産のサーモンの脂はそれぞれにおいしいが、口の中に入れた後の香り、つまり風味は同じではない。魚にはそれぞれ体臭みたいな風味がある。わさびを塗りつけ醤油に浸しても、鯛とスズキとヒラメの違いははっきりわかる。歯ごたえも違うが、口から鼻に抜ける魚の匂いがそれぞれ独特である。日本人はこの魚の体臭を正確にかぎ分ける文化を持っている。幼い頃から魚を食べ慣れてきた経験によるものであろう。
魚の体臭がどこから来るのかはよくわからない。淡路島で漁師の方に聞いた話では、潮の流れが急な海域のハマチと緩慢な海域のハマチとでは面構えが違う。もちろん風味も違うという。生息環境が風味に与える影響は大きいようだ。養殖と天然、海域や季節によって脂の味わいが異なることを考えると、やはり餌の違いの影響が大きいと思う。
餌によって脂の風味が変わるのは珍しいことではない。牛肉では輸出国によって脂肪の風味異なる。草を飼料にしたものと合成した濃厚飼料とではうま味の質も脂肪の風味も異なる。微妙な部分で料理にも違いが出る。一時、停止状態にあったアメリカ産の牛肉の輸入解禁を待つ食品業界関係者が多かったのは、牛肉の産地を変えると料理の風味まで変わってしまうという切実な理由があったからである。
魚の匂いの共通部分といえるトリメチルアミンは生臭い嫌な匂いである。漁港の魚臭さを思わせる。イカを焼いた香ばしい匂いにも同様の成分が含まれるが、世界中の国民から悪臭であると言われている。新鮮なカニの風味も絶品であるが、時間がたつと徐々に悪臭に変わる。魚の匂いも同様である。好ましい魚の体臭と、魚臭い嫌な匂いとは紙一重とは言わないがそれほど遠くはない。私たちは、好ましい魚の体臭を楽しんでいるが、魚臭さを喜んでいるのではない。
外国人は刺身を「生の魚」と呼ぶ。心外である。刺身はかすかな魚の体臭とうま味を味わう繊細な魚料理なのである。刺身には吟味された新鮮な魚しか使わない。時間との勝負もあり、総合的には非常に難しい料理である。ありがたいことに、日本の伝統的な清酒は魚の嫌な匂いを消してくれる作用がある。日本の魚料理には清酒の存在も重要である。寒い冬に燗酒、魚を楽しむお膳立てが整う季節である。
出典「逓信協会雑誌」(平成20年1月号通巻1160号)