「きっぱりと冬がきた」
高村光太郎の詩の冒頭だが、今年の冬はどうもしまりが悪い。百年に一度クラスの暖冬であったらしい。3月初旬には花見時期のような風が吹いていた。寒の戻りはあったものの、暖冬の評価を変えるほどではなかった。昨年が大雪だったので違いが際立つ。
鹿児島では桜の開花が遅れるという予想が早くからニュースになった。年末の気温が高すぎて、桜の開花スイッチが作動しなかったという。開花というのもずいぶん早くからスケジュールが立てられるものだ。本年は、暖冬のおかげで気温の変化と日照時間変化のリズムとが整わない。植物の春支度も混乱しているようだ。
おかげで食べ損なったものがいくつもある。筆頭はフキノトウ。頃合いを見計らって毎年採取に出かける決まったスポットがある。スーパーで買ったものはエグ味が強くて香りが弱い。取り立てのフキノトウは春の味覚の楽しみである。
小さな川の土手には木の葉や雑草の陰に輝くような若緑のフキノトウが並んでいるはずだった。ところがこの場所のフキノトウは、いつもの年ならまだ残雪に覆われているはずの時期に顔を出してしまったらしい。今年は雪がないのでかなり早く来たつもりだったのだが、黄色い花が満開になるほど育っていた。なんとか食べられそうなのは、日陰に隠れていた2つだけだった。
それでも、ニワトコの芽が膨らんでいた。いつもは早すぎるか遅すぎるかでタイミングが合わない。堅い芽もちょっとタイミングを逃すと開ききってしまう。今年は偶然にタイミングがあった。小振りではあったがいくつか摘んできた。
名残のフキノトウとニワトコは天ぷらになって食卓に登った。採取してから数時間だからエグ味成分が少ない。油で揚げるとさらにくせがなくなって絶妙の風味となった。山菜の事典によるとニワトコの芽は青酸配糖体を含むので猛毒ではないが多食はよろしくないらしい。そのせいかどうかは知らないが、ヌメッと舌に絡むようなコクのあるあやしい旨さがある。絶品の一つといえる。
食べ損じたものの一つに筍の若竹煮がある。朝堀の筍をワカメと一緒に淡い色のダシで煮る。料亭で出されると春がもうすぐ来るのを知ることになる。
「もう筍なのか」
「春ですよ」
驚かなければ若竹煮ではないのだ。実はワカメと柔らかい筍の朝堀を煮たものは今年も確かに食べたのだけれど、寒くなかった。汗ばむ陽気では若竹煮も見栄えがしない。春を待つ感激が足りなかったようだ。気候というのはおいしさに微妙に関わっているものである。
テレビのニュースでは、焼き芋の売れ行きも大幅減だったらしい。屋台のおじさんもあきらめ顔である。寒風を背にホクホクの芋を白い息で吹く。顔全体が焼き芋の湯気で熱い。寒くないとだめなものも多い。
もう一つおいしく食べられなかったものが餅である。年末に親戚の土間を借りて何臼か搗くのが恒例になっている。伸した餅を紅白歌合戦の始まる直前に切るのもならわしとなっている。固すぎず柔らかすぎず、餅を切るにはこのタイミングが具合がいい。しかし、今年は、餅が包丁にまつわりついて困った。冷えが足りないのだ。
正月のお雑煮はもちろん、松の内を過ぎても、みそ汁に入れたり、ストーブで焼いたり、餅は冬の間の楽しみである。ところが、この暖かさのせいで、不思議なことに餅を焼こうという気にならなかった。おいしく食べたという記憶もない。ついでに正月の七草も今年だけはすっかり忘れてしまっていた。
正月は寒ブリも楽しみだった。醤油をはじくような白く脂の乗ったブリを噛み締める。数秒後には舞い上がるようなおいしさがある。今年はこれも印象が薄いのである。
節分の豆も記憶が薄い。二月の初旬と言えば、寒風吹く厳しい時期である。大学の近くにある吉田神社も節分祭の時期には参道の雪どけが必要な年もある。そんな寒中での鬼やらいであり、豆まきなのだ。煎った豆は香ばしくて食べだしたらやめられない。年齢の何倍も食べてしまうが、今年は豆を食べた覚えがない。暖冬のせいだけではないだろうが、季節感がなくて食べる気がしなかったようだ。
冬の寒さは厳しくて嫌なものだが、寒くないとこれほど初春が平坦でつまらないものになってしまう。寒いからこそおいしいものが多いのだ。地球温暖化だとしたら困ったことだ。
出典「逓信協会雑誌」(平成19年5月号通巻1152号)