四食目
『キッチン・コンフィデンシャル』アンソニー・ボーデイン(土曜社)
あまりの面白さに読む手が止まらなくなり無我夢中で読んでしまう。そんな本に出会えることは、とても幸せな事だ。
そして本を読む人であれば、誰しもがそんな本に出会った経験があるのではないだろうか。
今回紹介する『キッチン・コンフィデンシャル』は私が出会った、そんな本の一冊である。
著者のアンソニー・ボーデインは1956年生まれのフランス系アメリカ人。
ニューヨークの人気料理店の料理長を務めるかたわら、自らの料理人としての半生をレストラン業界の舞台裏と共に書きあげた本作で人気作家の仲間入りを果たし、その後テレビや映画にも活躍の場を広げた人物である(惜しくも2018年6月に他界)。
『キッチン・コンフィデンシャル』という表題の通り、著者はこの本のなかで、レストラン業界の内緒話(一部の料理人や経営者にとっては不都合であろう事実を含む)を次々と書き出していく。
ニューヨークでは月曜に魚料理を頼んではいけない。
レストランではムール貝は頼まない。
日曜のブランチメニューにあるシーフードは避けるべき。
オランデーズ・ソースの料理も遠慮すべき。
ウェルダンに焼かれた肉や魚は、エビは、ブイヤベースは?
内緒の話は料理のことだけに留まらず、レストラン業界のオーナーたちにも及ぶ。
いったいレストラン業界のオーナーになろうという人間はどんな人物なのか。
成功するオーナーと失敗するオーナーの違いは。
上手くいかない店に見られる兆候とはどんなものか。
もし、これから自分で飲食店を始めようと思っている人がいるなら、きっと参考になることだろう。いずれも合点のいく話ばかりで、もし私がニューヨークに住んでいたなら、素直に著者の意見を聞いていた事と思う。
それにしても、これらの話が魅力的に感じられるのは、やはりこれらがレストラン業界の人間だけが知り得る秘密の話だからなのだろう。
いつの時代も、人というのは内緒話が好きなのだと改めて感じさせられる。
しかし、本書の中でこれらの内緒話よりもっと魅力的だったのは、著者が料理人としての人生の中で出会ってきた数々の人物の描写である。
登場する人物たちは、料理人から経営者、オーナーまで、いずれも一癖や二癖では済まない曲者揃いで、まるでよく出来た小説を読むようであった。
神に祝福されたような最高のパンを焼き上げながらも、私生活はドラッグ漬けで破滅的な日々を送るパン職人(なんと彼の本当の名前を誰もしらない)、著者の忠実な参謀にしてあらゆるトラブルを解決する能力を持つ副料理長。夏季休暇中のビーチで働く海賊のような料理人たち。地下の堅牢なオフィスから従業員を兵隊のように統率する経営者。うっかり飲食業に手を出したがために破滅していくオーナーたち。そして、戦場のような調理場で、洪水のように押し寄せるオーダーを次々と捌いていく著者の優秀なスタッフたち。
それはまるで映画「地獄の黙示録」に出てくる兵士のようであり、彼らの生きる世界は、我々が持つ高級レストランのイメージからは遠くかけ離れた、セックス・ドラッグ・ロックンロールの世界そのものであった。
火傷を物ともせず、熱された鉄皿を素手で掴み、天井まであがる炎を操り、怪我の数を誇りにし、休む事なく、まるでダンスを踊るように仕事をこなす料理人たちは、皆が魅力的で読み手の心を踊らせる。
この本を読んだ後で料理店(出来れば人気店のほうがいい)を訪れると、それまでとは全く違った景色が見えるような気がする。
そして、著者自身が、彼の住む世界を、料理を、そして彼を取り巻く人々を心の底から気に入り愛している事が、この本を野卑な暴露本ではなく一流のエンターテイメントたらしめている。
我々が思い描く高級料理店のシェフの日常とは果たしてどの様なものであったろうか。
地位と名声、高額な給与と、華やかな日常。
もしくは、味の求道者として研鑽し自己を突き詰めるストイックな日常といったところか。
さて、実のところ本書で語られる料理人の世界とはどんなものであったか。
その中身といえば、事実は小説よりも奇なりを地でいく波乱万丈の冒険譚である。
人生の冒険というものが、秘境の地や紛争巻き起こる危険地帯へ行かずとも、ニューヨークの街中のレストランの厨房で経験できるとは、何とも愉快ではないか。
撮影/伊藤 信 構成/吉田 志帆 撮影協力/ブラッスリーカフェ オンズ