龍谷大学短期大学部こども教育学科准教授の生駒幸子先生に、「絵本と食べ物」をテーマにおはなしを伺う連載企画。今回は、その特別編です。生理心理学研究がご専門のこども教育学科の藤原直仁教授と、絵本と食べ物について語り合って頂きます。
前回は、モーリス・センダックの著『かいじゅうたちのいるところ』を取り上げましたが、今回紹介する絵本は、宮西達也の著『おまえうまそうだな』です。
<書籍データ>初版2003年
おまえうまそうだな
作・絵:宮西達也
出版社:ポプラ社
<あらすじ>
むかしむかし。山が噴火して生まれたアンキロサウルスの赤ちゃんは、ひろーい荒野にひとりぼっちです。泣きながらとぼとぼ歩いていると、大きな大きなティラノサウルスに遭遇します。
「ガォーー!ひひひひ、おまえうまそうだな」
ティラノサウルスが飛びかかろうとしたその時、アンキロサウルスは意外な言葉を口にします。
生駒:巨大で凶暴なティラノサウルスが、小さい小さいアンキロサウルスと出会います。ティラノは「おまえうまそうだな」と食べようとしたら、アンキロサウルスが足にしがみついて「僕のお父さんなんだね」となついてきます。「なんで、俺がお父さんと知っているんだ」と問いかけると「だって、僕のことを『ウマソウ』と呼んだから」と言うのです。
アンキロサウルスは自分の名前(ウマソウ)を呼ばれたと思ったのですね。
それからティラノと「ウマソウ」は一緒に生活を始めます。ティラノが突然襲ってくる外敵から「ウマソウ」を護ったり、「ウマソウ」は赤い実を採ってティラノにすすめたり。ティラノは肉食だから、赤い実は美味しく感じないのですが、「うまいうまい」と食べます。でも、いつまでも二人は生活を共にできません。やがてふたりに別れの時が訪れます。
藤原:私の子どもが好きでよく読んでいました。美しいお話ですよね。
生駒:宮西達也さんの『おまえうまそうだな』シリーズは全部で15冊あるのですが、この作品が一番よく練られているなという感想です。
藤原:『かいじゅうたちのいるところ』は母性中心のお話でしたが、この『おまえうまそうだな』は父性についても描かれている物語ですね。ティラノは不器用だけれど、不器用なりに愛情を「ウマソウ」に注いでいる。その象徴ともいえるのが「赤い実」です。初めは食べてしまおうとした「ウマソウ」のかわいさにティラノのなかに眠っていた父性が刺激を受けます。「ウマソウ」も赤い実を採ってティラノに与えることで、ティラノの愛情に応えていたのではないでしょうか。
『かいじゅうたちのいるところ』でいう「食べちゃいたいくらいにおまえを好き」になったティラノは、「ウマソウ」が採ってきた赤い実を美味しくないと感じながらも、うまいうまいと言って食べます。私たちも、子どもが作った料理がそこそこの出来でも「美味しい美味しい」と言って食べますよね。赤い実も同じ意味合いなのかなと。ティラノ自身、無理をしているんですけど、無理をしてもあまりあるのが愛情なのかなと。私はそう読みました。
生駒:以前、藤原先生が「子育てのなかで親は子どもに愛情を注ぐけれども、実は子どもからもらうものも大きい。子どもに親として成長させてもらっている」とおっしゃっていたことがありましたね。その言葉を踏まえて自分の子育てを振り返ったとき、なるほど、子育てのなかで人として成長させてもらえたなと感じました。この絵本を読んで、藤原先生の言葉を改めて思い出しました。
藤原:「教育」は「共育」、「共に育つ」だと言う人がいますが、子育てはまさに親も一緒に成長していく「共育」という言葉が当てはまるように思います。
ティラノの場合、「ウマソウ」と出会ったときが、「父親」としての第一歩になった日だったのではないでしょうか。
生駒:ティラノは「ウマソウ」を食べようとしていたのに、父親としての愛情に突然目覚めてしまいます。
それはティラノが「ウマソウ」に父親だと勘違いされて、とっさに出た「お父さんってなんでわかったの」という台詞に意味がありそうです。
藤原:ティラノも混乱していたのではないでしょうか。「ウマソウ」にかわいい感じで寄ってこられて、きっとメロメロになって…。でもここからティラノの父親としての育ちが始まるんです。父親は初めて子どもを抱っこするとき、大抵ぎこちなくなりますよね。でも母親は、初めてでも自然と上手に抱ける。一体となっていた母子と異なり、父親にとって子どもはある日突然やってくる存在ともいえます。ティラノもある日突然現れた「ウマソウ」によって父親になりました。宮西さんは他にも『おとうさんはウルトラマン』(学研)などを発表していますが、どの作品も不器用ながら子どもと接点を持つことで、父親自身が成長していく点が共通していますよね。特に、この『おまえうまそうだな』は渾身の一作だったと宮西さん自身も感じているのではないでしょうか。
生駒:シリーズの中でも、いちばん素朴で、細部までこだわって描かれた作品だという印象を持ちます。『かいじゅうたちのいるところ』のように複雑さも内包していて、さまざまな解釈ができそうです。文字を入れず、絵だけで表現しているページもあって、読者の想像力もしっかり膨らませてくれる。絵本表現としてのテクニックの巧みさもあります。
藤原:物語の最後に、ティラノは「さよならウマソウ」とつぶやいて赤い実を食べます。この赤い実は、きっと「ウマソウ」が採ってきた最後の赤い実ではないでしょうか。ティラノは肉食だから生きるためには肉を食べないといけません。だから、この最後の赤い実は「ウマソウ」との思い出であり愛情であり、名残のようなものではないでしょうか。木村裕一さんの『あらしのよるに』にもオオカミがヤギと友達になったばかりに食べられないという描写がありますよね。でも、ティラノもオオカミも一次的欲求は満たされない。きっとどこかで肉を食べていたのではないかと、つい思ってしまいます(笑)。ティラノも最後の赤い実を食べることで、「ウマソウ」との暮らしに別れを告げ、元の生活に戻そうとしたのではないでしょうか。
生駒:でも「ウマソウ」はきっとティラノと過ごした日々を忘れないでしょうね。
藤原:「ウマソウ」は、産みの親の元へ帰ったあと、いったいどうなったんでしょうね。「ウマソウ」はティラノと一緒に生活したことで、別のティラノサウルスに不用意に近づいて食べられる危険だってある。親のアンキロサウルスも、「ウマソウ」とどうやって接していくのかな、と次から次へと想像が膨らみます。手塚治虫の『ジャングル大帝』に、主人公のレオが「みんなが仲良く生きるために、肉食動物も草を食べよう」と提案するけれど、うまくいかないことで、レオが自身を見つめ直すという話がありました。この物語にも、ティラノと「ウマソウ」をめぐる美しいお話だけでなく、ティラノが去っていったあとの「ウマソウ」親子が新たな愛情を育んでいくか。そういった要素も問題提起しているのではないかと読めます。一読すると単純だけれども、深読みし始めると難しい話かもしれないですね。ティラノとの話は美しかった。でも「ウマソウ」と親のアンキロサウルスとの愛情は育まれるか。この親子はうまくいくのか、そんなことが気に掛かります。
生駒:確かに、「ウマソウ」と出会ったときのアンキロサウルスの親の表情も、決して「ウマソウ」を待ち焦がれていたようには見えませんね…。むしろ無表情です。作者はここをあえて、文字のない絵だけのページにしています。物語の最後にティラノは赤い実を食べますが、ティラノは扉絵でも赤い実を口にしています。そう考えると、宮西さんは赤い実に何らかの意味を持たせて描いているなと。先生がご指摘されたところも、宮西さんは意識して描いていたかもしれません。
藤原:結構複雑な場面ですよね。
生駒:生みの親か、育ての親かという意味で、親子の本質的な関係性への問いが隠されていますよね。
藤原:ティラノが赤い実を食べるシーンで終わっているから、子どもはこの物語は終わりだなと思うのかもしれませんが、大人は「この先どうなるの」と気になってしまいます。子どもが一人の大人として成長していくときにどの段階で子離れするのか。そういった問いも投げかけられているような気がします。
【今回の対談者】
藤原 直仁(ふじわら・なおひと)
龍谷大学短期大学部こども教育学科教授
京都府出身。1998年に龍谷大学とのご縁をいただき、2011年度から現職。「食」については研究テーマとしてよりも、日常生活における「食」への関心が高い。医学博士。