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【書評】『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

【書評】『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』

西谷 将嗣

レボリューションブックス 店主

十九食目

『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』

石井好子著(河出書房新社)

私は幼い頃から食への興味が旺盛で、実際に食べるのは勿論のこと、子供のころは漫画に出てくる食事のシーンを繰り返し読みながらオヤツを頬張るのが、何よりの楽しみだった。
大人になってからも大差はない(おやつが酒には変わった)が、そこに江戸から昭和初期への興味が加わり、当時の食について書かれた本をよく読むようになった。
そのころに重宝したのがエッセイ本だ。

江戸時代の武士の食生活を記した日記なども出版されていたが、よく読んだのは昭和初期から中期にかけてを綴った池波正太郎や東海林さだおのエッセイで、これらは今は失われてしまった当時の食生生活や庶民の食に対する意識など、民族学的な読み物としても面白いものだった。

今回紹介する『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』も、そんな昭和の食文化を記した一冊だが、ほかと少し違うのは、その内容が日本だけでなく世界に及んでいることだろう。
著者の石井好子の本業はシャンソン歌手だが、パリ留学時代の思い出を綴ったエッセイ『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』がベストセラーとなり、文筆家としても活躍した人物である。
「巴里の空の下〜」は1963年の初版以来現在まで一度も絶版になっていないロングセラーとなっており、本作はそれから約20年後に書かれた続編にあたる。
石井の書く文章は軽やかな一方で読み応えがあり、続けて読むにはいささか体力を要する。
元々、月刊紙での連載をまとめた物なので、一話ずつじっくり読むのが丁度良いのかもしれない。

私は初めてこの本を読んだ時、何とも言えぬ違和感を感じたのだが、今回読み直してみてもそれは同じであった。
この書評を書くにあたり、改めてその違和感と向き合ってみたのだが、どうやらそれはこのエッセイが「エッセイらしからぬエッセイ」であることに原因があるようだ。

日本におけるエッセイは随筆の影響もあり、漫筆・漫文的な「くだけた読み物」のイメージが強いが、本来ヨーロッパにおけるエッセイとは緻密な思索の末に書かれた論文的要素の強いものを指している。
石井の書くエッセイはどちらかというと後者に近く、読みやすい文体とは裏腹に一つ一つの事柄が著者のなかで分解され、検証され、確認されたのちに初めて文章化されているような印象を受ける。

食がテーマのエッセイなので、お堅い話はなく、あの時食べたあれは美味しかったとか、あの人と食べたあのメニューにはこんな思い出があるといった話題が多いゆえ、余計に違和感を感じたのかもしれない。
料理に例えれば、ものすごくシンプルに見える料理のレシピが実は大変な技術や時間を要するものだった、という様なイメージだろうか。
今となっては、これが意図されたものなのか無意識なものなのかは判らないが、いずれにせよ石井の書くエッセイが非常に繊細で良質なものであることは間違いない。

作家の平松洋子は解説の中で石井について「非凡な取材力」と称し、「ただ詳細に見て知るだけではない。かんじんなものはなにか、的確に判断し、見逃さず、分析し、理解し、表現する」「おどろくほどたくさんの料理が登場するけれど、そのすべてにさきほど挙げたような思考の動きがまんべんなくほどこされており〜」と書いているが、私もまったくの同感である。
書評を書くにあたり解説から引用するのは反則かもしれないが、私も全く同じように思うし、それを先に平松さんが書いているのだから仕方がない。
全くもってそのとおりです、と引用させていただくことにした。

このように石井の書くエッセイが、一般的なエッセイを超えた手法で書かれたエッセイであることが私の感じた違和感の正体なのだが、これは悪いことではない。
読んでいて違和感もなく、流れるように頭に入ってくる文章というのは、すでに自分が知っていることや解っていることについて書かれている場合が多いので、少しくらいの違和感や疲れを伴う読書のほうが、実は新しい発見があったりするからだ。

ただ、これは書く側の問題であって、読む側の話ではない。
つまり、レシピの複雑さの話であって、味の複雑さではないということだ。

目の前にある料理がどのように調理され、いま目の前にあるかを知ることが、その料理の新しい側面に気付かせてくれるように、いま読んでいる文章がどのような背景をもって生まれてきたかを知ることが、その文書の新たな一面に気付くキッカケになることもある。

少し話が堅い方向へ行ってしまったが、レシピではなく料理としてのこの本の味わいは絶品であり、そこに一切の複雑さはない。

本書のなかで、石井がヴァカンス中の友人からの葉書を見て思い立ちスペインへ向かうエピソードがあるが、その一節に「パリにも行きたかったので、急に決心して、あわただしく旅装をととのえた」とあるように、石井は世界を旅する音楽家でもある。
そのため本書では日本だけでなく世界中の食の思い出が綴られており、取り上げられる料理は、世界中の友人宅を尋ねた折に振る舞われた家庭料理から高級なレストランやホテルでの料理、田舎町の食堂の料理、そしてそれを日本に持ち帰りアレンジし友人に振る舞ったものまで幅広いが、共通しているのは家庭であろうが高級レストランであろうが田舎の食堂であろうが、美味しいものは美味しいという貴賎のない目線である。
もちろん、時には口に合わないものに出くわすこともあるが、異国の文化を不味いと切り捨てることはせず、必ず良いところを探す視線に石井の人柄を感じる。

表題の「東京の空の下オムレツのにおいは流れる」は前著「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」を受け継いだものだが、前著のヒットによりオムレツは石井の代名詞となった。
オムレツにまつわる仕事が増え、雑誌の取材で日に何軒ものオムレツを食べ歩き、「シャンソンの石井好子」から「オムレツの石井好子」に変じたと本書でも触れているが、最後には友人から「石井さんのオムレツを食べてみたい」とせがまれるうち、「玉子と私」というアメリカ映画から名前をとったオムレツ専門店を日比谷に出すにまでに至っている。

本書で紹介されているこの店のメニューから気になったものを幾つか抜粋すると、

○チーズ入りオムレツ(クリームソース)
○揚げじゃがいものオムレツ(トマトソース)
○小海老のオムレツ(クリームソース)
○ビーフシチューのオムレツ

メニュー紹介の後には、「オムレツは玉子3コを使って、大型で、そのまわりにソースを流し入れ、ピラフもそえてあるから、これ一品でじゅうぶん満腹する」とある。

私はオムレツの「周りにソースを流し入れ、ピラフもそえてある」という部分に大変惹かれた。
想像するだけで、お腹が空く思いだ。
このエッセイからは、全編を通して暖かな湯気と、バターやクリームやソースの良い香りが漂ってくる気がする(もちろん、醤油や味噌の香りも)。それもこれも、軽やかな文体の向こうにある著者の食の記憶の力強さのせいであろう。

ちなみに、現在「卵と私」というオムライス専門のチェーン店があるが、これが石井の「玉子と私」と関係があるのか、私は知らない。
電話して確かめてみようかとも思ったが、関係があってもなくても当時の石井のオムレツを味わえないことに変わりはないので、やめた。

写真/伊藤 信  企画・編集/吉田 志帆