仕事や家事の合間に一杯の紅茶を入れて、ビスケットなどの甘いお菓子とともに、つかの間の癒しを楽しまれる方も少なくないのではないでしょうか。芳醇で温かな紅茶は、私たちの疲れた心と体を優しく慰め、気分をリフレッシュさせ、さあもうひと踏ん張りと思わせてくれます。
あまりに日常的過ぎて、意識されることなく行われる「紅茶を入れる」という所作ですが、紅茶の入れ方に並々ならぬこだわりを表明したイギリス人作家がいました。彼の名はジョージ・オーウェル(1903-1950)。代表作にはいずれもディストピア小説である『動物農場』(1945)と『1984年』(1949)があります(後者は村上春樹の小説『1Q84』のベースとなったことでも有名です)。オーウェルは、ロンドンの日刊紙『イブニング・スタンダード』1946年1月12日号において、紅茶の入れ方には「すくなくとも十一項目は譲れない点がある」(注1)と述べました。さらには、そのうちの「すくなくとも四点は激論の種になることだろう」とも言っており、「激論の種」とは、紅茶の香りがもたらす癒しや優雅さとはかけ離れ、何だか穏やかではありません。そんなオーウェル流の紅茶の入れ方をまとめると、次のようになります。
≪インド産かセイロン産の茶葉を使用し、陶磁器製のポットはあらかじめ温めておきます。一リットルの水の入るポットなら茶さじ山盛り六杯分の茶葉(要するに濃くないとダメ)を、ポットの中で泳げるように直接投入します。そこに沸騰している熱々のお湯を注ぎ入れたら、茶葉をかき混ぜるか、ポットを揺するかして、その後茶葉がポットの底に落ち着くのを待ちます。落ち着いたら、深い円筒形のブレックファースト・カップ(浅く平たいカップはダメ)に紅茶を注ぎ、最後に乳脂分をとりのぞいたミルクを入れたら完成です。絶対に砂糖を入れてはなりません。≫
なるほど、丁寧な紅茶の入れ方といった感じです。たまにはこのように紅茶を入れてみたいものですが、皆さんはこのどこに「激論の種」があったかお気づきでしょうか。できあがった紅茶をポットからカップに注ぐという最終段階に、オーウェルが「最大の議論の一つ」とみなした難題、現代にいたってもなおしばしば議論され、ときに家族間・友人間で口論にまで発展することのある根深き問題が隠されています。
そう、それは、カップに注ぐときに、紅茶から入れますか、それともミルクから入れますかという問題です。オーウェルは紅茶が先派であり、その理由は後からミルクを入れることで量を加減できるからとしています(濃い紅茶を好んだオーウェルらしい理由です)。しかし、ミルクが先派の言い分にも否定しがたい強力な論拠があると認め、イギリス国内における二派の拮抗状態を伺わせます。どちらが先でも同じではないかと思わずにはいられませんが、そこは紅茶が「この国の文明をささえる大黒柱の一つ」であることを自認する「紅茶の国」イギリスです。彼らにとっては、下手をすると文明の崩壊さえも引き起こしかねない重大問題に違いありません。
とはいえ、現代イギリスでは、オーウェルが推奨するような優雅な紅茶の入れ方を実践している人は多くなく、たいていはティーバッグ(合理的なアメリカ人による発明品!)を入れたかなり大きなマグカップに電気ケトルで沸かしたお湯を注ぎ込み、ティーバッグをとり出すことすらせずにミルクをドバドバッと入れ、オーウェルが入れてはいけないと言った砂糖をティースプーンに山盛り数杯入れて飲んでいるのが実情です。(注2)
さらには、オーウェルが紅茶の入れ方を説いてからまだ百年も経ってはいないのに、今やイギリス人の大半は紅茶よりも珈琲を好んで飲む珈琲派です。紅茶の消費量は年々減り続け、お隣の国アイルランドにも完敗しました。このままいくと、百年後には紅茶が先か、ミルクが先かと悩む必要すらなくなっているかもしれません。それでも、水ゆえでしょうか、イギリスで飲む紅茶はたしかに美味しいと感じるのです。
注
1. ジョージ・オーウェル著、小野寺健訳『一杯のおいしい紅茶―ジョージ・オーウェルのエッセイ』(中央公論新社, 2023)。これ以降、引用はすべて本書からのものである。
2. 階級社会のイギリスでは紅茶の入れ方もその人の属する階級により、とりわけ砂糖を入れるかどうかには階級差が大きく表れる。上流階級では、オーウェルのように砂糖なしの紅茶を飲むのが常である。