5月3日は「五三焼カステラの日」。五三焼カステラは卵黄と卵白の配合比率が5:3と卵黄を多く使った、贅沢なカステラのこと。記念日を5月3日に制定した長崎県の和泉屋のほか、文明堂、福砂屋といったカステラメーカーが五三焼のカステラを販売しています。
カステラが日本にやってきたのは、室町時代の終わりごろ。長崎を訪れたポルトガルの貿易商やキリスト教の宣教師によって伝えられ、長崎で役人だった村山等安は南蛮商人からカステラの製法を学び、1592(天正20/文禄元)年、豊臣秀吉にカステラを献上。秀吉はキリスト教を拒否していましたがカステラに大いに喜び、村山等安を初代長崎代官に任命したといわれています。
日本に伝わった最初の製法は、同量の小麦粉・砂糖・卵を混ぜ合わせ、鍋で蒸し焼きにするというものでしたが、江戸時代初期からは、日本人の好みに合わせて素材や製法が変化していきました。職人たちが水あめを使ったり、炭火で上下から火を通す和製オーブン「引き釜」を考案したりと、試行錯誤を繰り返した結果、ふっくらとしているのにしっとり、そして甘い日本独自のカステラができあがったのです。
カステラは外国から伝来した菓子なので洋菓子と思われがちですが、じつは和菓子というのはご存知でしょうか。全国和菓子協会では、明治維新より前に入ってきた菓子は和菓子、それ以降に西洋から入ってきた菓子は洋菓子とジャンルを分けています。和菓子は、大きくは生菓子・半生菓子・干菓子の3つにわけられており、カステラは生菓子のうち「焼き物」の「オーブン物」に分類されます。
カステラのルーツは、ポルトガルとスペインがあるイベリア半島にあるといわれています。ポルトガルもスペインも地方によりさまざまな種類のカステラがありますが、日本のカステラの原型といわれているのが、ポルトガル北部の郷土菓子「パォン・デ・ロー」と、スペインの「ビスコチョ」です。
日本でカステラといえば細長い四角形のものがおなじみですが、「パォン・デ・ロー」は丸くふくらんだ形が特徴です。ポルトガルの港街・ポルトでは、陶器の大きな型の中心に小さな器をひっくり返して置き、生地を流し込んで蓋をしてドーナツ状に焼き上げます。ポルトガルとの国境近くにあるモンブウェイに伝わる「マイモン」は、焼くときにつかう器や見た目もポルトガルの「パォン・デ・ロー」とほぼ同じです。
カステラの語源は諸説ありますが、イベリア半島の中央部にあるカステーリャ地方だとする説が有力です。カステーリャは、かつてイベリア半島に存在した王国の名前でもあり、ポルトガル商人が長崎の村人にカステラの名前を聞かれたときに「カステーリャのパン」または「カステーリャのデザート」と答えたという言い伝えがあります。
「薩長同盟」の仲介人だった坂本龍馬はカステラ好きだったことが知られています。1866(慶応2)年に起こった「寺田屋事件」で、龍馬は京都・伏見にある薩摩藩の定宿で幕府の役人に襲撃されました。薩摩藩の西郷隆盛や家老・小松帯刀らは、傷を負った龍馬に「京都を離れて、薩摩で療養してはどうだろうか」とすすめます。龍馬は妻のお龍(おりょう)とともに薩摩へ向かったため、これが日本最初の新婚旅行だといわれています。
龍馬とお龍が薩摩の霧島山に登る際、小松帯刀は「山にごはんを持っていくのは禁物なので、弁当代わりに」と、2人に“カステイラ”を渡したといいます。龍馬はのちに、姉に「霧島山は男性でも登りきるのが厳しかった」と話していますが、それほど険しい山で食べた甘いカステラは、さぞかし美味しかったことでしょう。
また、1867(慶応3)年、龍馬が長崎で結成した貿易結社「海援隊」の日誌「雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)」にはカステラのレシピが書かれています。その内容は、卵が百目(もんめ)、小麦粉(当時はうどん)が七十目、砂糖が百目で、これらを合わせて焼くというもの。1目が約3.75グラムなので、卵が375グラム、小麦粉が241.5グラム、砂糖が375グラムということになります。現在のカステラのように水あめが入っていないので、素朴な味わいだったのではないでしょうか。
カステラは明治期以降、文明開化の影響を受け、白砂糖や水あめの普及とともに全国に広まっていきました。現在は定番のカステラのほか、抹茶などのフレーバー入り、ひと口サイズの鈴カステラもおなじみですね。カステラは洋菓子ではなく和菓子ですが、コーヒーや紅茶にも、日本茶、さらには牛乳にも合うお菓子です。5月3日「五三焼カステラの日」は、おやつタイムにお気に入りのカステラを食べてみてはいかがでしょうか。