絵本と食べ物をテーマにした生駒先生の連載企画。今回はその特別編として、龍谷大学学長の入澤崇先生との対談です。幼い頃から絵本が大好きだったと話す入澤学長。対談では子どもの頃の思い出や記憶に残る一冊の絵本、そしてナラティブ(物語)の重要性について語っていただきました。
<書籍データ>
おかあさんだいすき
文:マージョリー・フラック
絵:マージョリー・フラック、大沢昌助
訳:光吉夏弥
出版社:岩波書店
発行年:1954年
<あらすじ>
小さな男の子ダニーは、お母さんの誕生日に何かお祝いをしたいと考えています。めんどりさんは卵を、がちょうさんは羽根を、やぎさんはチーズ作るためのお乳を……と、いろいろな動物がダニーのために何かをあげようとしてくれますが、それらは全部、お母さんが持っている物なので、プレゼントにはできません。最後に森に住むくまさんから、よいことを教えてもらうのでした。ダニーはお母さんに何をあげたのでしょうか。「おかあさんのたんじょうび」、「おかあさんのあんでくれたぼうし」の2話を収録している、光吉夏弥氏による翻訳・編集の〈岩波の子どもの本〉シリーズの一冊です。
生駒:今日はお時間をいただきましてありがとうございます。
入澤:楽しみにしておりました。
生駒:私もとても楽しみにしておりました。今回の対談の打ち合わせで、先生のお部屋に伺いましたらこんな素敵なアルバムを見せていただきまして。
入澤:ある受験雑誌からインタビューを受ける際に「小さい頃のお写真を用意しておいてください」と言われていたものですから、アルバムを実家からもってきておりました。父親がものすごいマメな人で、小学校に上がるまでがこちら。こちらが小学校に上がってからかな。私は実家が寺院なんですけど、昔は保育所も運営していまして。小さい頃は、絵本や紙芝居に囲まれて育ってきました。
生駒:この写真では、絵本を熱心に見ておられますね。
入澤:ただ絵本を父親や母親に読んでもらっても、ストーリーを自分の頭の中で改変して新たな物語をつくる。そういうことが好きでしたね。だから元のストーリーはあまり覚えていないんです(笑)。例えば脇役に登場する動物の日常生活はどのようなものだったんだろうかとか。今でいうスピンオフ。
生駒:メインストーリーよりもサブストーリー(笑)。
入澤:そうです、そうです。
生駒:先生は広島の因島でお育ちになったとおうかがいしましたが、故郷の思い出はどのようなものですか。
入澤:島で育った私は、常に本土との距離を痛感し続けていました。当時は、因島の向かいにある尾道に出るまで、船で1時間20分かかっていたんです。だから、尾道へ行くということは少年心に大都会へ出るという思いでした。島での生活は(「金田一耕助シリーズ」の作者)横溝正史が描くような閉塞感に満ちた世界だったから、とにかく外へ出たいと思っていました。実際に、小学6年生の時に、私、家出したんです。
生駒:え!?そうなのですか! 島での生活をつまらなく感じておられたのですね。先生のお父様も、島から出たいという気持ちはおありだったのでしょうか。
入澤:さあ、それはわかりませんね。父親も私と同じ次男だったのですが、兄が早逝したために寺を継がなければならなくなったんです。私にも兄がいるのですが音楽業界に身を投じたので、私はぼーっとしているうちに寺を継ぐことになったんです(笑)。寺を継ぐことを決断したのは29歳だから大学院の時ですね。龍大の学生時代* はどうしようかなという思いをずっと引きずっていました。
*入澤学長は龍谷大学卒業生。
生駒:お寺を継ぐ決断をされたきっかけはありましたか。
入澤:いちばん大きなきっかけを挙げるならば、私の母方の叔父の存在ですね。叔父は市の助役を務めていて、ある時、私に「仕事を退いたら、仏教の話を聞かせてほしい」とお願いされたことがあったんです。結局、私は叔父に仏教の話をできないまま、叔父は亡くなりました。葬儀の際に叔父の死を悼んで多くの人が集まっている光景を目の当たりにした時、叔父の言葉を思い出して、人間の生き方に反映できる仏教とはどのようなものかを学びたいと思うようになったんです。
生駒:人々の暮らしに密着した仏教に、興味を持たれたのですね。
入澤:もともと哲学や宗教への関心は強かったのですが、それまでは自分の生活や自分の暮らしと切り離したところで研究の対象にしていたんです。でも、例えばイスラムの人は生活と宗教が一体化した生活をおくっています。仏教にしてもアジア一帯に広まった時に、宗派仏教とは異なる、暮らしと仏教が密接に結びついた痕跡が至る所に残っています。それを探ろうと思ってアジアの仏教遺跡の調査を行うようになりました。
生駒: そのような経緯がおありだったのですね。
入澤:アジアには壮大な遺跡がたくさんあるのですが、仏教に影響を受けた人たちがどういう暮らしを営み、どういうことを大切にして生きていたのかということに焦点を当てて研究していました。インドやパキスタン北部、かつてガンダーラといわれていた地域には、仏塔があってそこにお釈迦様の生涯が彫刻で表現されています。それは決してただ「飾られたもの」としてあるのではなく「語られたもの」として残っています。解説者を想定しないことには何が表現されているかわからないのです。こうした視覚表現と語りが、古代において、現地の人々にとって仏教と暮らしを結びつける大きな役割を果たしたのではなかろうかと。
それは私たちが幼い頃に、父母や教育者、保育者が絵本を読み聞かせてくれたように、現地の人々も仏塔に表現されたものと語り手の存在によって、生きる上で大切なことを学んでいた。私は現地でそうした仏塔を巡り、しらみつぶしに集めた物語を『ジャータカ物語』(本願寺出版社、2019年)として上梓しました。私にとって仏塔は単なる美術の対象ではなく、民衆と仏教を結ぶ大事な接点だと考えています。
生駒:仏塔には彫刻や絵だけではなく声による語りがあるので、具体的に人物像が浮かんでくるんですね。私も先生のご著書を大変興味深く読ませていただきました。記号化、デフォルメされた形ではありますが、物語が視覚表現によって仏塔に残されていたことには驚きました。先生の語り、物語への興味や関心の原点には、幼い時期に出会われた絵本や紙芝居があるのでしょう。
入澤:もともと私は経典の研究をしていたので、ビジュアルについては研究外だったんです。それが研究のためにインドへ行くようになって、ビジュアル的なものが非常に重要だったと気がつきました。インドやシルクロードの仏塔はもちろんですが、例えば日本だと絵伝や絵巻物がそれに当たりますね。龍谷ミュージアムで「絵解き」をテーマにした展覧会を開催したことがありますが、絵解きには語りが欠かせません。私もこの展覧会を通じて、人間には「ナラティブ(物語)」が必要なのだと改めて実感しました。
人間の実存におけるナラティブの重要性はこれまでにも指摘されていますが、それは決して単なるストーリーではありません。それは一人の人間が生涯を送る、人生の物語だと思うのです。例えば本学に入学した学生にとっては、その人自身がその人自身の「龍谷物語」を歩んでいるんです。その学生が本学に在籍したことの意味を問うとき、自分自身のナラティブを創り上げることができるかが、非常に重要なのだろうと考えます。
生駒:自分が主人公である人生の物語なのですね。
入澤:宗教や文化について考えるときにも、大切な事柄は物語の中に含まれています。例えば、本学の建学の精神である「阿弥陀如来の誓願」は、阿弥陀如来が菩薩であった時、すなわち法蔵菩薩であった時の物語に出てくるんです。ナラティブは非常に重要なんですよ。自分の中でナラティブが形成できるかどうかも重要です。もし危機的な状況下に置かれても、その危機をどのように受け止めるか、その時にその人自身のナラティブができあがるのではないでしょうか。
生駒:私が若い人たちに本を読んでほしい理由も、その物語との出合いにあります。 授業では、子どもへの絵本の読み聞かせの意味について、学生と共に考えます。大人はなぜ子どもに絵本を読むのか、そして私自身はなぜ学生のみなさんに本を読む、つまり物語に出合ってもらいたいのか。私たちは一つの肉体を持って、一つの人生しか生きることが出来ないのですが、本のなかにある物語との出合いによって、時空を超えて違う人生をいくつも生きることができる。その楽しさや奥深さを、子どもたちにも、若い学生のみなさんにも体験してほしいと思うのです。物語のなかでさまざまな人に出会い、自分とは異なるものの見方、考えに触れることによって、自分のなかに多様で豊かな価値観を形づくっていくことができるのではないでしょうか。
入澤:絵本の楽しさは、一つの回答だけではなく、読む人によって異なる解釈が生まれるところにあります。私にとって本を読む行為は、自分の持っている価値観を揺さぶることになり、自分自身を形成することにつながると思います。
生駒:入澤先生が今回選ばれた絵本の『おかあさんだいすき』も……。
入澤:幼い頃に、何度も読んだことを覚えています。
生駒:そうなのですね。
入澤:母親の誕生日に何をプレゼントしようかと、男の子がいろいろな動物に尋ねるのですが、最終的にくまさんからのアドバイスで「おかあさんだいすき」って抱きつく。
生駒:お母さんにとって、いちばん嬉しいプレゼントですね。
入澤:このプレゼントが、物ではないところが興味深いのです。動物たちが主人公のダニーに提案してくれる卵でもなく、羽根のまくらでもなく、チーズでもなく、羊毛の毛布でもなく、牛乳でもなく、ただただ首にぎゅっと抱き着いて、頬ずりをする。つまり、大切なものは案外、身近にある、もしくは既に自分のなかにあるということなのでしょう。
生駒:そのような解釈ができるのですね。大好きという気持ちをお母さんにプレゼントするって、とても素敵ですね。
入澤:また、この絵本では母親が重要な役割を果たしていると感じます。母親は優しさの象徴として描かれているのではないでしょうか。慈悲のシンボルとしての母親ですね。
生駒:母親という存在は、誰にとっても「帰るところ」のシンボルなのですね。戦時中の兵隊の話を読むと「おかあさん」と叫んで亡くなっているという……。
入澤:現実に母親がいない人であっても、私たち人間一人ひとりのなかには「母なるもの」があるのだと思います。
生駒:それは「帰るところ」でしょうか。仏教において母親のような存在の象徴はあるのですか。
入澤:「帰るところ」と言えば、「浄土」ですね。阿弥陀仏の極楽浄土。私たちの命、帰するところ。生まれたばかりの赤ん坊を母親が優しく抱っこして病院からお家に連れて帰るように、仏さまが必ず「私」を浄土に導いてくださる。
生駒: 安心できる基地のようなところ……。
入澤:仏さまを「親」ととらえる考え方もあります。私たち一人ひとりに親という存在があるように、人間にとっての親が仏さまという。
生駒:どんな時でも、そっと見守ってくれる存在なのですね。
(後半へ続く)
【今回の対談者】
入澤 崇(いりさわ・たかし)
龍谷大学 第19代学長
広島県因島出身。インドの片隅に生まれた仏教がどうしてアジア一帯に広まったのかを研究しています。
これまで中国・トルファンのベゼクリク石窟壁画の復元やアフガニスタン仏教遺跡調査などを行なってきましたが、「人として生きるとはどういうことか」と仏さまから問われており、怠け者の私は恥じ入るばかりです。